牧師の部屋
9月4日(日)説教要約 マルコによる福音書12章1~12節「教会の働き」
8月28日(日)説教要約 マルコによる福音書10章46~52節「新しい人間」
8月21日(日)説教要約 マルコによる福音書10章13~16節「家族」
8月14日(日)説教要約 マルコによる福音書9篇42~50節「主に従う道」
8月7日(日)説教要約 マルコによる福音書9篇33~41節「キリストの体」
3月27日(日)説教要約 マルコによる福音書9章2~10節「主の変容」
3月20日(日)説教要約 マルコによる福音書8章27~33節「受難の予告」
3月13日(日)説教要約 マルコによる福音書3章20~27節「悪と戦うキリスト」
3月6日(日)説教要約 マルコによる福音書1章12~15節「荒れ野の誘惑」
2月27日(日)説教要約 マルコによる福音書4章35~41節「奇跡を行うキリスト」
2月20日(日)説教要約 マルコによる福音書2章1~12節「癒すキリスト」
2月13日(日)説教要約 マルコによる福音書4章1~9節「教えるキリスト」
2月6日(日)説教要約 マルコによる福音書4章21~34節「たとえで語るキリスト」
1月30日(日)説教要約 マルコによる福音書1章35~45節「巡回宣教」
11月21日(日)説教要約 マルコによる福音書10章13~16節「子どもを祝福する」
10月31日(日)説教要約 マルコによる福音書7章14~23節「堕落」宗教改革記念日
10月17日(日)説教要約 マタイによる福音書25章1~13節「天国に市民権をもつ者」
10月10日(日)説教要約 マタイによる福音書22章15~22節「皇帝への税金」
10月3日(日)説教要約 マタイによる福音書21章18~32節「信仰による生涯」
9月26日(日)説教要約 マタイによる福音書20章1~16節「惜しみなく与える主」
9月19日(日)説教要約 マタイによる福音書19章13~20節「新しい戒め」
9月12日(日)説教要約 詩編15章1~5節「隣人」
9月5日(日)説教要約 マタイによる福音書18章10~20節「教会の一致と交わり」
8月29日(日)説教要約 マタイによる福音書13章44~52「究極の希望」
8月22日(日)説教要約 マタイによる福音書13章24~43節「忍耐」
8月15日(日)説教要約 マタイによる福音書12章43~50節「家族」
8月8日(日)説教要約 マタイによる福音書10章16~25節「苦難の共同体」
8月1日(日)説教要約 マタイによる福音書10章5~15節「宣教への派遣」
7月25日(日)説教要約 マタイによる福音書9章9~13節「憐れみの福音」
7月18日(日)説教要約 マタイによる福音書8章5~13節「異邦人の救い」
7月11日(日)説教要約 マタイによる福音書7章15~29節「生活の刷新」
7月4日(日)説教要約 マタイによる福音書7章1~14節「祈り」
6月27日(日)説教要約 マタイによる福音書6章22~34節「主にある共同体」
6月20日(日)説教要約 マタイによる福音書5章21~37節「新しい義」
6月6日(日)説教要約 マタイによる福音書3章1~6節「悔い改めの使信」
5月30日(日)説教要約 マタイによる福音書11章25~30節「神の富」
5月23日(日)説教要約使徒言行録2章1~11節「聖霊の賜物」ペンテコステ礼拝
5月16日(日)説教要約ルカによる福音書24章44~53節「キリストの昇天」
5月9日(日)説教要約マタイによる福音書6章1~15節「イエスの祈り」
5月2日(日)説教要約ヨハネによる福音書14章1~11節「父への道」
3月14日(日)説教要約マタイによる福音書17章1~13節「主の変容」
シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしてから、主イエスはご自身の苦難の道を弟子たちに話し始められた。それから6日後、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて、祈るために高い山に登られた。その山上でイエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。モーセとエリヤが出てきて主イエスと話し合っているのをペトロは見た。モーセは律法の代表者であり、エリヤは預言者の代表者である。つまり、モーセとエリヤは旧約の代表者と言える。ペトロがイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と。
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。主イエスは、どんな偉人とも同列に置かれるべきではない。私たちの唯一の救い主、また王なのである。
イエス・キリストは、旧約聖書の預言通りに来られ、救いの預言を成就するために、これから苦難の道を行かれようとしている。この世での最後の時が近づいた時、弟子たちに、その事をはっきりと示すために、また、その後に弟子たちに起こる大迫害の時にも、確かにイエスが神の御子であったことを確信させるために、ご自身のまことの姿を見せられた。
3月7日(日)説教要約マタイによる福音書16章13~28節「受難の予告」
主イエスは「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子たちに訊ねられた後、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれた。これに対してペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をする。このペトロの信仰告白を一つの転機として、主イエスの行動は、次の段階、十字架への道へと移る。ここでイエスは四つのことを予言した。(1)エルサレムに行くこと(2)長老たちから多くの苦しみを受けること(3)殺されること(4)三日目に復活すること。しかし、弟子たちは理解しなかった。
マタイ16:22「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言った」。するとイエスはペトロに言われた「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔する者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。そして言われた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。
主イエスに従うとき、復活の栄光にあずかるための私たちの負うべき十宇架をも主が備えて下さる。主イエスが先立って十宇架を背負われ、その主イエスの後に従って私たちはただ歩むだけなのである。イエスご自身が受けた受難の十字架を通して、私の復活に至る道が備えられた事に感謝する。
2月28日(日)説教要約マタイによる福音書12章22~32節「悪と戦うキリスト」
本日の聖書箇所は、主イエスとファリサイ派の人々との間でおきた論争について書かれている。主イエスが「目が見えず口の利けない」身体の不自由な人をいやされたことがことの発端である。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」、つまり、メシアではないかといぶかり始めて言った。「ダビデの子」とは、メシアに対して使われていた称号である。
ところが、ファリサイ派の人々は悪霊から解放された人の事を喜ぶどころか、むしろ「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。彼らは、主イエスにおいて、神の霊が働き、悪霊、悪の力、罪の力が打ち破られていること、そして、それによって神の国が到来している、ということを認めたくなかったのである。
それに対して主イエスは、内輪もめすると内部分裂してしまう、「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」と反論した。そして、「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。」と言われた。これは一般のユダヤ人魔除け祈祷師のことで、彼らも悪魔の仲間とされてしまう。そうなると、彼らがファリサイ派を裁く者となる。また、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と指摘する。つまり主イエスは、神の恵みの支配が始まっていると言われたのである。
「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」これは神と悪魔は敵対関係にあり、そこでは中立状態はあり得ない事を示している。
主イエスはさらに「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と言われた。私たちは神の恵みの慈しみと厳しさをしっかりと心にとめなければならない。
2月21日(日)説教要約マタイによる福音書4章1~11節「荒れ野の誘惑」
バプテスマのヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、人々に洗礼を授けていた。イエスは、そのヨハネのところで洗礼を受けられた。イエスが水の中から上がられると、天がイエスに向かって開き、神の霊が鳩のようにイエスご自身の上に降ってきた。その時、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえた。父なる神の声である。この出来事の後に、本日の聖書本文が書かれている。
ヨハネからバプテスマを受けた主イエスは、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食の祈りをされた。するとそこに、悪魔がやってきてイエスを試みた。悪魔の誘惑である。聖霊を受けた者は、主が共におられる事を実感し、自身の心が清められ、喜びと平安に包まれまる。しかし、聖霊に満たされた者はまた、荒れ野へとその道を歩むことになる。そしてそれは聖霊に送り出される道でもある。荒れ野は、神との交わりの場、祈りの場でもあり、またサタン、悪魔が誘惑してくる場でもある。
断食をして、おなかをすかしている主イエスに、サタンは「この石に命じてパンにしてみろ」と言うと、主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と申命記8章3節の言葉でそれを拒否した。次にサタンは高い所に主イエスを連れて行って「ここから飛び降りてみろ。神の使いがお前を支えてくれるだろうから」というと、主イエスは、「神を試みてはならない」と申命記6章16節でサタンの誘いを退けた。そして最後にサタンは、この世の富と栄華を見せて、「わたしにひざまずけば、これをお前にあげよう」と言うと、主イエスは「『ただ神にのみ仕えよ』と聖書はいっている」と申命記6章13節の聖書のみことばをもってサタンの誘惑を拒否した。「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(ヨハネの手紙一2:16)
神の御子であるイエスにも誘惑はやってくる。悪魔はどんなに人のところにもやって来て、誘惑をする。だから主イエスは「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」と、常にこの世の誘惑に警戒すること、そして祈りと霊の満たしとみことばによって自分の心を守ることを教えられた。
2月14日(日)説教要約マタイによる福音書14章22~36節「奇跡を行うキリスト」
本日の聖書本文の一つ前で、主イエスは5つのパンと2匹の魚で成人男子だけで5000人が満腹になる奇跡を行われた。しかし、弟子たちがパンの奇跡とそれに伴う人々の反応で有頂天になってしまわない為に、強制的に船に乗り込ませ、向こう岸へ行かせた。舟は既に陸から離れており、逆風が吹いていたために、彼らは波に悩まされていた。
主イエスは夜明け頃、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは波と風に悩まされ、恐怖も抱いていたので、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、主イエスはすぐに彼らに声をかけて、「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」と言われた。するとペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言ってしまった。
主イエスが、「来なさい」と言われたのでペトロは舟から降り、水の上を歩いてイエスの所へ行った。しかし強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので「主よ、助けてください」と叫んだ。主イエスはすぐに手を伸ばし、ペトロをつかまえて、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われた。二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
ペトロは主イエスの言葉に従って、今まで経験したことのない体験をした。しかし、目の前の出来事を見た瞬間怖くなり水に沈みかけた。そのような失敗を通してそれが教訓になり、弟子たちの信仰が深まり、彼らの信仰が成長していく。主イエスと共に舟に乗り込んだ時のように、キリストを私の中に迎え入れた時、平安が訪れる。試練を通して神は多くのことを教えてくださる。イエス・キリストを知ることが出来たのは何と素晴らしいことであろうか。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われたイエスの言葉を忘れないようにしよう。
33節を見ると、弟子たちは、イエスの水上歩行、ペトロの救出劇、嵐の静まりを通し、イエスを「拝んで」、「本当に、あなたは神の子です」と言った。この後、キリストを乗せた舟は向こう岸に到達する。彼らは今回の体験を通して、キリスト観が進歩した。イエスのすばらしさをさらに知る者となった。私たちもまた、イエスを知る歩みの中に置かれている。
2月7日(日)説教要約マタイによる福音書15章21~31節「いやすキリスト」
主イエスはガリラヤからティルス、シドンの地方へ行かれた。そこは地中海に面したフェニキアの町(現在のレバノン)で、異邦人が多く住んでいる所である。その時、カナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んだ。22節の「出て来て」というのは、異教の精神的、文化的、宗教的世界から出てきたという事。ユダヤ人とカナン人はお互いに反目しあっていた。しかしそのカナンの女が娘を思う一心から主イエスに救いを求めているのである。「主よ、ダビデの子よ」と叫んだのは、彼女の実存をかけた心の底からの叫びであり、メシアの救いを求める異邦人の心の底からの求めなのである。
カナンの女の求めに対して、主イエスは3度も拒否されていたが、2度目の拒否の理由はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていないというものであった。主イエスはまず、イスラエルの救いのために働く計画があった。しかし、イスラエルに注がれた恵みは、イエスを信じる異邦人にも及んでいくのである。主イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」小犬である事をわきまえつつ「食卓から落ちるパン屑」はいただくことが出来るという謙遜と信仰を告白している。つまり、この異邦人の女性は、ほんの少し、パンくずほどのあわれみを下されば、主イエスから力をいただくことができるのだという信仰を表明したのである。そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。彼女のねばり強さは神を信じる信仰に基づいたものであって、事態をより良い方向へと変えることのできたのである。主イエスは彼女の信仰を称賛し、彼女に限りない愛を示された。
そしてガリラヤに行かれて、山に登って座っておられると大勢の群衆が来たので、さまざまな病の人を癒された。彼らはイエスのわざを見て驚き、イスラエルの神を賛美したとある。つまり、癒された者の多くが異邦人であることが分かる。ここでも「食卓から落ちるパン屑」であるメシアの救いのめぐみが異邦人にも与えられていたことが分かる。
1月31日(日)説教要約マタイによる福音書5章17~20節「教えるキリスト」
5章で主イエスは山上の説教を教えられた。それは律法学者やファリサイ派たちの教えとは違い、神の国について、神の義についての権威ある、新しい教えであった。しかしだからといって、主イエスが来られたのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。つまり、誰一人全うできなかった律法を成就してくださったのが主イエスなのである。「律法と預言者」とは旧約聖書全体を意味する。即ち「イエスは旧約の完成者である」というのが、マタイ福音書を貫くイエス理解である。
また18節に、すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法(ここでは旧約全体を指す)の文字から一点一画も消え去ることはないと言われる。18節で、主イエスによる救いが成就するまで律法は効力を持つと述べられていたが、19節ではそれを報いのテーマと関連させている。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
20節では「あなたがたの義」と律法学者やファリサイ派の義が対比されて、主イエスの見解が示されている。「律法学者」は律法の解説者であり、教師のこと。「ファリサイ派」は「分離された者」の意で、律法を最も形式的に厳密に守る正統派敬虔主義者たちのこと。あなたがたとは、主イエスの呼びかけに答えて彼に従う者たちのことである。あなたがたの義とは何か。主イエスによって律法と預言者つまり旧約聖書が成就することでもたらされる神との新しい関係の源であり、主イエスによってもたらされた神の国に入るための条件である。
主イエスが問うのは外面的な実行に先立つ、内面的な姿勢である。外面に現れる行為よりも先に、その行為の源となる心のありようが問われるのである。「義」とは、正しさである。あなたがたの正しさが、律法学者やファリサイ派の人々よりもまさっていなければ、天国には行けないと主イエスは言われる。主イエス・キリストは、邪悪と背教のために失われていた完全な福音を回復され、誤った教えを正し、旧約聖書の預言者によって伝えられた預言を成就された。これからも主イエスの教えに従って信仰者としての道を歩んでいこう。
1月24日(日)説教要約マタイによる福音書4章18~25節「最初の弟子たち」
主イエスが宣教を始められてからまず、アンデレ、シモン・ペトロ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの4人を最初の弟子としてお召しになった。それは福音宣教の使命を果たさせるためである。「わたしについて来なさい」という言葉は、イエス・キリストの招きである。その招きはあらゆる時代の、あらゆる人々に語りかけられる神のめぐみの招きである。マタイは4人が主イエスの招きの言葉に、すぐに一切を捨てて従ったと記している。実はマタイ自身も、マタイ9:9で、主イエスの招きにすぐに応じている。弟子たちへの召命に対して、主イエスの持たれている主権、召命の迫りを感じたのであろう。すぐにすべてを投げ捨てて従ったことこに、召命への応答の模範を見る事が出来る。
4人の弟子のうち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、弟子たちの中でも中心人物となり、主イエスの変貌にも、ゲッセマネの園にも選ばれて同行した。アンデレは5千人を養う奇蹟の時に、重要な役割を果たした。このように、最初の弟子になった使徒には、特別な使命を帯びて派遣された者という意味がある。彼らには特別な才能や力があった訳ではない。ただ神の力によって宣教に命をかける者となった。私たちも、主イエスが今も生きておられる神の子であることを信じることができるならば、このイエスの招きに喜んで従うことができる。このような信仰も献身も、全ては聖霊の導きによるものである。そして何より重要なことは、まず主が招いてくださらなければ何も始まらないということである。マタイ4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。この主イエスの招きの言葉の背後にある、主の権威と愛によって弟子たちは捕らえられた。ドイツのナチスによって殉教した牧師ボンヘッファーは「キリストの生涯は、この地上でまだ終わっていない。キリストはその生涯をキリストに従う者たちの生活の中で、更に生きたもう」と言った。
主イエスは、バプテスマのヨハネと同じく「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣教を始められたが、ヨハネのように荒野に人々を集めるのではなく、人々の中に、自分から入って行かれた。ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆の病気、わずらいをお癒しになさった。私たちもキリストに倣い、隣にいる人の元に行って、キリストの福音を伝えていこう。
1月3日(日)説教要約マタイによる福音書2章13~23節「エジプト避難」
ヨセフとマリアが幼子イエスとベツレヘムで暮らしていた時、東方の占星術の学者たちがきて、幼子イエスに礼拝し、捧げものをして帰った時、主の天使が夢でヨセフに現れてエジプトに逃げなさいと告げました。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしているからです。ヨセフは、すぐに起きて、夜のうちに幼子イエスとマリアを連れてエジプトに去り、ヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在しました。貧しい彼らには、その直前に黄金、乳香、没薬が与えられています。神のご計画を歩む時、その人は、確かに神の御手の中にいる事をさまざまな事を通して知らされます。ヨセフとマリアもそうでした。見ず知らずの羊飼いたちがやって来て、天使が救い主がお生まれになったと告げたと興奮して聞かされました。ある日突然、位の高そう異邦人の学者たちが現われて、幼子を礼拝し、高価な贈り物をしてくれました。そこに天使のお告げがあったのです。マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていました。マタイによる福音書1章と2章では、主の天使が5回夢で現れます。4回はヨセフに、1回は学者たちに現れて、神様のみこころを示され、神様の御業のために動く者を導かれました。
幼子イエスがエジプトに逃げて生活し、また戻ってきた事を、主の預言の実現だと言っています。ホセア書11章1節のみことばです。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」これは、神様がエジプトで厳しい奴隷生活をしていたイスラエル人を解放して下さったことを指しています。幼かったイスラエルはエジプト脱出後、40年間荒野で生活をしながら、創造主が自分たちの神である事を知り、正しく認識し、整えられて、神の民となっていきました。それと同じように、キリストが登場することで、キリストの民、キリストの弟子がこれから生まれてこようとしているのです。イスラエルがモーセによって奴隷から解放されたように、モーセに勝る指導者、イエス・キリストがイスラエルに出て来て救い主となり、人々を罪の奴隷から救うものとなることを、ここでは示しているのです。幼子イエスが隠れて暮らした洞窟の上に建てられている教会がエジプトにあります。聖セルジウス教会で、エジプトで最古のコプト教会の一つで、外に出るとピラミッドが見えるそうです。神の独り子がこの世に生まれてくださったのに、人々の不信仰によって、神の子はエジプトに追われていきました。しかしそれは、私たちがその罪から解放されて、救われるためだったのです。
12月6日(日)説教要約マタイによる福音書13章53~58節「受け入れられない主」
主イエスはガリラヤのカファルナウムを、その活動の拠点とされました。そこで、主イエスは「天の御国」についての七つのたとえ――種蒔き、毒麦、からし種、パン種、隠された宝、良い真珠、地引き網のたとえを語られ、その教えについては、弟子たちだけに語られるようになっていました。それぞれのたとえを通して、天の御国に関する様々な面を教えてくださっているのです。それから主イエスはカファルナウムを去り、故郷のナザレへと帰られました。この時、主イエスの噂は故郷のナザレにも伝わっていたようです。主イエスが故郷のナザレに帰ったある安息日にも、その日のトーラー(創世記から申命記)を主イエスが朗読され、説教をされました。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていたとあります。イエスを幼い時から知っていた人びとは、主イエスの語られるその神的な知恵にも、超自然的な力にもただただ驚くばかりでした。彼らは、人間イエスを知っていましたが、それから一歩進んで、信仰によって主イエスを知る、ということまではできず、人々はイエスにつまずいたのでした。主イエスが郷里ナザレで受け入れられなかったことは、ユグヤ民族が彼をメシアとして認めなかったことの象徴的出来事と言えます。ヨハネは福音書でそれをこう書き残しています。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(1:11-12)」
クリスマスまでのアドベントの間は、この一年間の罪を悔い改めて、心の備えをする期間です。共に、御言葉に聞き、自分自身が主イエスを確かにわが主として信じているだろうか。また、主イエス・キリストの側に私は立っているかどうか、点検しつつ、軌道修正をしながら、この一週間も祈りのうちに過ごしていきたいと思います。
11月22日(日)説教要約 マタイによる福音書25章31~46節「最も小さい者」
さて、今日の聖書のお話しは、最後の審判のお話しです。イエス様はお弟子さんたちと一緒にいる時に、たくさんの事を教えてくださいました。ある人々は、ただ、信仰によって、困っている人々を助けたのですが、それは、実はイエス様にしてくれた事と同じなのですよ、と言っておられるのです。「最も小さい者」とは、貧しい人々、さまざまな困難の中にある人、社会的に弱い立場にある人たちのことです。しかも、信仰のゆえに財産を奪われたり、牢屋に入れられたりした人のことをさしています。ただし、このように人を助ける事が、神様の祝福の条件ではありません。それをしないと祝福されない、というのではなく、知らずに人に親切にして助けてあげた事、それを神様は見ていてくださっていて、祝福してくださるのだ、と言っておられるのです。なぜなら、良い心から良い行動が出るし、良い心から良い言葉が出るからです。それを聖書では、「信仰の実」と言っています。
今日は収穫感謝礼拝と共に、礼拝後すぐに児童祝福式があります。こどもはこの世にあっては、守られるべき、弱い存在です。つまり、「最も小さい者」の一人です。その子どもをイエス様はとても大切にされました。マルコによる福音書10章13~16節。この事に倣い、本日、礼拝後共に子どもたちの祝福をいたしましょう。