本文へ移動

牧師の部屋 

9月4日(日)説教要約 マルコによる福音書12章1~12節「教会の働き」

 主イエスは、ぶどう園のたとえを、祭司長、律法学者、長老たちに話された。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った」このたとえはイザヤ書5章1~2節から来ている。
 「ぶどう園」はイスラエル。ぶどう園の持ち主は神、そして農夫たちはイスラエルの民。彼らはあるじに雇われた使用人。使用人はそれを育て、収穫をぶどう園の主に渡さなければならない。その収穫の時がきたので、ぶどう園の主が僕を送ってぶどうの収穫を受取ろうとした。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。しかし農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。」この問答をした3日後に主イエスは十字架に架けられる事を暗示している。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
 ぶどう園は神の所有するものである。その神の実りが、ユダヤ人限定ではなく、キリスト教会に受け継がれるようになっていく。主イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」
 

8月28日(日)説教要約 マルコによる福音書10章46~52節「新しい人間」

 主イエスと弟子たちの一行はガリラヤを出てエリコの町に着いた。過越しの祭りが近かったので、エルサレムに行くために主イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。バルティマイは人々の話から主イエスがエリコにいる事を知った。そして、そのイエスがエリコから出て行こうとしている、そのイエスが今自分の座っているところの近くにいることを聞いたので、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。「ダビデの子」という呼び方は、メシアを表現する称号である。主イエスに会うには今しかチャンスがないバルティマイは必死になって叫んだ。彼は主イエスを「ダビデの子」来るべきメシアだと思って信じていた。また、バルティマイは、イザヤ書35章5節「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。」と預言しているように、メシアが現れると、盲人の目が開かれ、聞こえない人も聞こえるようになる、という聖書のみことばを信じていた。だから、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と必死で叫び、主イエスに憐れみを求めた。
 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、その声は主イエスに届き、主イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。今までの生活を脱ぎ捨てて、主イエスと出会って、主を知り、新しく生まれ変わる、そう信じて一歩を踏み出した。
 主イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
 

8月21日(日)説教要約 マルコによる福音書10章13~16節「家族」

 
 この箇所の背景は、主イエスがいよいよ神のご計画を遂行するために、エルサレムに向けてガリラヤを出発された時の出来事である。その途中で主イエスは2度目の苦難の予告をされたが、弟子たちはその意味が分からなかった。彼らは自分たちの中で誰が一番偉いか、という議論をしていたため、主イエスがこれから歩まれようとする犠牲的な生き方を理解できずにいたからである。弟子たちは、主イエスがこれからローマ帝国を退けて新しいユダヤ王国を作り王となられると思っていた。だから、自分たちの勢力争いをし始めていた。それほどに、主イエスに付いて来る人々の間では、ユダヤの解放の希望が高まっていたのである。
 そんな時、人々が子どもたちを連れて来たが弟子たちはこの人々を叱った。イエスがあまりにも忙しかったので、これ以上イエスをわずらわすことがないようにという配慮からである。しかしその事を見て、主イエスは憤られた。そして弟子たちに言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」ここで言う「神の国」とは、死んだあとに行く天国の事ではなく「神の支配が及んでいるところ」または「神の支配」という意味である。
 そしてさらに言われた。「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
 主イエスが「子ども」という言葉で比喩されているのは、弱く、貧しく、無きに等しい者であり、自分には全く功績や誇るべきものがない者、そして素直に罪を認め、悔い改める事の出来る者、そのようなことを意味している。自分の弱さ、価値のなさ、頼りなさを認め、神に信頼する者のみが、神の国に入ることができる。
 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。主イエスはむしろ子どもたちを受け入れ、祝福され、いと小さき者を神の家族として受け入れてくださった。そして、私たち一人ひとりも主イエスを信じ告白するならば、神の子になり、神の家族となることができる。主イエスはマルコ3章33以下で、神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。と言われた。
 

8月14日(日)説教要約 マルコによる福音書9篇42~50節「主に従う道」

 
 1945年8月15日に第二次世界大戦が終わって77年になる。人類史上初めての原子爆弾による被災国となり、戦争は終わった。ロシアによるウクライナ侵略戦争と、中国による台湾併合の危機の中、核戦争の話が脅しのために使われている現在、戦争による唯一の被爆国である日本からの核戦争反対、核廃絶の訴えは大きな意味を持っていると思う。また8月は日本基督教団では平和を覚えて祈る月となっている。
 本日の聖書本文で、主イエスはご自分を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。と言われた。
手は実際につまずきとなる行為を行なうものの、手にそのような行動をとらせるのは、自分自身の心である。だから、実際に片手を切り捨てることよりも、そのようなつまずきの行為を行なわせる心を、まず解決しなければならない。つまり、それほどの決意と犠牲を払ってでも、つまずきの原因を取り除くことが重要なのである。あなたの心を守りなさい、と主イエスは言われている。
 人は皆、火で塩味を付けられる。またこの火は私たちの罪を清める事も象徴している。主イエス・キリストの十字架の犠牲と復活の恵みによって、私たちは悔改め信じて許され、その信仰によって神から「義」とされる。そして聖霊を受けて新しく生まれ変わるものとなっていく。これが「火で塩味を付けられる」ことである。
 

8月7日(日)説教要約 マルコによる福音書9篇33~41節「キリストの体」

 
 本日の礼拝は、8月第一週ですので、平和聖日としてささげます。平和聖日は、1961年に日本キリスト教団の西中国教区が教団に提案しました。広島の原爆を実際に経験した牧師と信徒の方々の祈りから平和聖日は始まりました。そして翌1962年に、平和聖日は教団全体で守るものとなりました。
 その平和聖日が制定された1962年にはキューバ危機があり、世界では核戦争が起こるかもしれない、という危機のなかにありました。その様な緊迫した世界情勢の中で平和聖日は制定されたのでした。2022年を迎えた今、再びロシアが核戦争を起こすかもしれない、という危機的な状況にあります。また、近くの中国と台湾の有事が起きるかもしれないという中、私たちは平和のために、今日も共に心を込めて、霊とまことを持って神に礼拝をお捧げしたいと思います。
 主イエスは座って十二弟子を呼び、そして世間の常識や人間的知恵とは異なることを教えられました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」。
 私たちの所属する兵庫教区には兵庫教区被災者生活支援長田センターがあり、各地の災害被災地の支援活動をしています。このような支援をし続ける事が出来るのは、自らが被災し、被災者としての体験があるからです。そして、信仰による祈りと、キリストに従う信仰があってのことです。苦難の中に、それもキリストを信じて歩んでいる人々が集まる中、キリストは必ずそこにいて下さいます。そのキリスト者の集まり、エクレシア、それが教会であり、教会はキリストの体なのです。そしてその業は、この世において、平和を作り出す活動の業なのです。信仰と祈りが無ければ続けづらい、そのような業です。その様な業ができるところ、それがキリストの体なる教会であり、その業はキリストの業なのです。 
 
 

3月27日(日)説教要約 マルコによる福音書9章2~10節「主の変容」

  ペトロが信仰告白をして6日後、主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。主イエスはそれまでもこの3人を選んで連れて行かれていた。それは、この3人の弟子たちによって、主イエスの変貌の出来事が証言されるようにするためである。なぜなら、この出来事がこれからの弟子たちにとって大きな意味があるからである。
 ところが、彼らの目の前で主イエスの姿が変り、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。主イエスは、全き人間として存在しておられたが、この山でキリストの栄光の姿に変わって現れられた
 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、主イエスと語り合っていた。エリヤは預言者の代表者であり、モーセは律法の代表者である。つまり、エリヤとモーセは旧約聖書の代表者と言える。
 ペトロが口をはさんで主イエスに言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペトロは何を言ってよいのか、わからなかったからである。
 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただ主イエスだけが彼らと一緒におられた。
 主の変容を通して、神は、神が愛する御子、人々が聞き従うべきお方は主イエスおひとりであることを示された。
 

3月20日(日)説教要約 マルコによる福音書8章27~33節「受難の予告」

 マルコによる福音書では、バプテスマのヨハネが登場した後に主イエスが登場し、様々な教えを説き、福音を宣べ伝え、人々を癒すなどの奇跡を起こします。そして、そのような主イエスの事がイスラエル中で噂になった頃、主イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」と言われました。すると弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と、人々が主イエスを間違いなく神から遣わされた預言者の一人であると理解していると言いました。
 主イエスはさらにお尋ねになりました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」すると「あなたは、メシアです。」とペトロが告白します。人々が何と言おうと、主イエス、あなたは私たちイスラエル人が待ち望んでいた救い主、メシアです!!と言ったのです。すると主イエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められました。
 主イエスといつも一緒にいて全てを見ていた弟子たちには、主が救い主であることが分かってきました。その様な中で主イエスが質問をされ、それに対する回答がペトロのメシア告白でした。こうして、マルコによる福音書の前半部分が締めくくられます。そしていよいよ後半部分へと入ります。ここから、いよいよ主イエスの生涯は、その目標である十字架を目指して進み始めます。そして、それは、苦難の予告から始まります。
 それから主イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められました。すると、何とペトロは主イエスをわきにお連れして,いさめ始めたのです。その時主イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とペテロを叱責されました。主イエスをメシアだと告白し、弟子たちの中でも、最優秀の回答をしたペトロでしたが、彼は大きな間違いを犯しました。この時、主イエスに最も近かったペトロは最も遠くなったのです。
 
 

3月13日(日)説教要約 マルコによる福音書3章20~27節「悪と戦うキリスト」

 主イエスがカファルナウムの家に帰られると、群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。それは、主イエスがいままでとは違う権威ある教えをされていた事と、多くの病を癒しておられると言う噂が広まっていたからである。しかし全員が良いように思った訳では無かった。ある人々が主イエスを悪霊につかれていると中傷したので、身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取り押えに出てきた。
  エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。主イエスを悪霊どもの頭、と言いながらも、主イエスが悪霊を追い出している事は認めざるを得なかったため、このような理屈に合わない話をしていた。主イエスはそのことを指摘された。主イエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。また、もし家が内輪で分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。
 だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。ここで主イエスは、ご自身がサタンよりも強い力をも持っておられる事をはっきりと話しておられ、イエス自身がサタンを縛り上げる事が出来るのだと言われた。なぜなら、そのような権威を持っておられる神の御子だからである。主イエスの権威がサタンを縛り、サタンに囚われている人々を解放して自由にするのである。しかし、律法学者はその事が理解できなかったので、間違った非難をしているのだ、と主は指摘しておられる。それに続いて、人々に対して厳粛な警告を与えられた
 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。
 この箇所で言う聖霊を汚す者、聖霊を冒涜する者、とは、イエスが聖霊の力によって悪霊を追い出している事を知りながら、それを故意に悪霊による業であるという者の事である。
 

3月6日(日)説教要約 マルコによる福音書1章12~15節「荒れ野の誘惑」

 
 イエスは、自らの教えを書き残すことはなさいませんでした。弟子たちは、イエスの教えを聞き、イエスのなさる奇蹟を見て体験して来ましたが、私たちはイエスと使徒たちが宣教して回った時に話したことを聞きたくても、今のように録音機もビデオもありませんから、直接聞くことはできません。しかし、イエスとその弟子たちが何をどのように話しておられたかという事は、使徒たちが諸教会に書いた手紙と、彼らの弟子の残した書物で知る事が出来るのです。
 なぜこのような前置きをするかと言いますと、それは今日の聖書本文が、実に不思議な内容だからです。イエスが悪魔から誘惑された、そして勝利された、というのです。悪魔からの誘惑を受けた記事は、イエスが伝道を始める前に起こった出来事ですから、弟子たちは誰もまだイエスに出会っていない時の出来事なのです。しかし、重要なことなので、イエスは弟子たちに荒野の誘惑の出来事を語られたと考えられます。
 イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、天が裂け、鳩のような聖霊をお受けになり、父なる神が、私の愛する子だと宣言されました。その後、聖霊がイエスを荒れ野に送り出しました。それはあたかも荒れ野のような私たちの人生の中に入ってくださったかのようです。イエスは40日間荒れ野にいてサタンから誘惑を受けられました。40は旧約聖書との強いつながりのある聖なる数です。そして野獣もそこにいたのですが、天使たちはイエスに仕えていたとありますが、これは「サタンの試み」に対してイエスが勝利した後の出来事なのです。イエスは聖霊に満たされ、みことばによってその誘惑に勝利されました。
 私たちの歩む人生の荒れ野に共におられ、私の受けるべき労苦を共に受けてくださる神の子イエスに私たちは慰めと励ましを受けます。人生における困難な歩みを、「世に勝っている」と言われるイエスと共に歩みたいと思います。
 バプテスマのヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。この宣言は、私たちにもう一度、真理を求めて立ち上がる勇気を与えてくれます。
 

2月27日(日)説教要約 マルコによる福音書4章35~41節「奇跡を行うキリスト」

 
  主イエスはガリラヤ湖を中心とした地域で人々を教え、癒し、12人を弟子として選び、その後、彼らを連れてガリラヤ地方を巡って宣教されました。マルコは4~5章で、最初に主イエスの福音の中心の一つである神の国についてたとえを用いて解説し、そしてその次にそれが主イエスによってもたらされたという事について、4つの奇蹟がそれを証明しているという意味で書いています。
 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。湖の向こう岸、ユダヤ人の住むガリラヤから異邦人の町に行こうとしておられたのです。そしてそのために、夜の間に湖を渡ろうとされたのでした。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出しました。12人の弟子たちは、ほかの3~4艘の舟で一緒にガリラヤ湖に漕ぎ出しました。弟子たちの中の4人、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、元々このガリラヤ湖で漁師をしていた人たちでしたので、主イエスは、安心して艫の方で眠られたようです。しかしそれからしばらくすると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどになりました。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられたので、弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。すると主イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われたのです。すると、風はやみ、すっかり凪になりました。そして主イエスは言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」この奇跡を目の当たりにした弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言いあったとあります。
 弟子たちは、嵐がその言葉で静まるのを見て、目の前の主イエスの存在があまりにも偉大で、そのなさる事すべてが想像すらできないほどの事であったがために、弟子たちは恐ろしくなりました。ただ畏れたのです。弟子たちは、この奇蹟を体験してからは、それまで付き従ってきたイエスを、わが神、主イエス、として見詰め直しました。しかしイエスを神の子である事を理解するのは、主イエスの十字架の死と復活、そして、聖霊が下られるまで待たなければならないことなのでした。
 弟子たちはこの時、神の子である主イエスが一緒に舟に乗っておられました。そして、その主イエスが、「向こう岸に渡ろう」と仰られたのです。そのことばを信じていれば、恐れることなどなかった、そのような信仰を持ちたいと思います。
 

2月20日(日)説教要約 マルコによる福音書2章1~12節「癒すキリスト」

 主イエスは宣教を始めて、カファルナウムで権威あるみことばを宣べ伝え、多くの病人を癒された。カファルナウムのペトロの家におられた時、主イエスの噂を聞き付けた大勢の人が集まって来たので、戸口まですき間もないほどの人で家中がいっぱいになった。主イエスはそこで再びみことばを語っておられた。集まって来た人々は、主イエスのなさった多くの奇蹟のことを聞き、訪ねてきた。彼らは奇蹟を起こしたイエスとはどのような人なのか、自分たちの聞いた事は本当の事なのかを確かめに来た。なぜなら、神様がお許しにならなければこのような不思議な業は起こらないと言う事を、イスラエルの人々はよく知っていたからだ。
 彼らが主イエスの語られるみことばに耳を傾けていた時、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。周りの人たちは驚いていたが、主イエスの視点は少し違った。イエスは病人を運んできた人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。友の病を癒してもらうために来た友人たちは驚き、期待外れに思ったかもしれない。しかし、主イエスは、実は最も大切なことを一番最初に行われた。主は、「この瞬間に罪は赦されました」と言われたのだ。この中風の人が特に罪が深いという意味ではない。人は誰であっても、神の前では罪ある存在なのである。ただこの時代の病人は、自分が「罪人」であるからこうなったのだ、と自分で自分を責める事が多かった。その様な罪の重荷に苦しめられ続けてきたこの人に向かって、主イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」宣言されたのだ。ここに、病と罪意識に苦しむ者の心を最も良くご存知の主イエスの、まことの癒しとまことの愛とが実現されている。
 また癒しの本来の目的はイエスが神の御子であり、救い主であるという事を知らせるためであった。しかしイエスを神の子と認めない律法学者たちがそのことを理解できないことを見抜かれた主イエスは、中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われ、中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われた。するとその人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。
 
 

2月13日(日)説教要約 マルコによる福音書4章1~9節「教えるキリスト」

 主イエスが再びガリラヤ湖のほとりで教え始められると、おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そのため、安全面においても、また集まって来た全員に教えが聞こえるようにという配慮からも、船に乗られた。主イエスは当時の教師らしく、腰を下ろして人々に教えられた。主イエスはしばしばたとえによって人々を教えられた。旧約聖書の預言者は多くのたとえを用いて話をしていたため、聖書の時代の人々はたとえ話に慣れていた。
 そして主イエスは種まきのたとえ話をされ、13節以降からはその解説をしている。
 3節「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」→14節「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」
4節「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」→15節「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。」
 5-6節「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」→16-17節「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」
 7節「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」→18-19節「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」
 8節「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」→20節「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
 み言葉を受け入れる私たちの心はいつも同じ訳ではない。時には心が石地であったり、いばらが生えてきたりする。しかし日々御言葉を読み、祈り、讃美歌を捧げる事で、この心を整えていただき、良い地になっていく。だから、自己点検しながら良い地になれるよう、日々努めたい。
 
 

2月6日(日)説教要約 マルコによる福音書4章21~34節「たとえで語るキリスト」

 マルコによる福音書4章には4つのたとえ話があります。マルコはここに、主イエスが色々な機会に話されたたとえ話をまとめて記しています。主イエスはたとえを通して神の国について教えられました。
 主イエスは、マルコによる福音書1章15節で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という宣言をもって公生涯、すなわち福音を宣べ伝える生活を開始しました。また、ルカによる福音書4章43節「しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」とあるように、主イエスが神様から派遣されたのは、神の国を宣べ伝えるためである、とはっきりと語っておられます。そして、主イエスの弟子たち、その御旨を遂行するために選ばれ、派遣された弟子たちも、主イエスと同じように、神の国について宣べ伝えたのでした。
 「神の国」、それは、四つの福音書の中心的な教えです。その神の国について、主イエスは「たとえ」を用いて、その時代の人々に分かりやすい題材で、教えられました。「たとえ」のギリシャ語「パラボレー」とは「そばに置くこと」という意味です。主イエスは重要な霊的真理を伝えるために、日常生活でよく使う事、または日常の出来事を用いて話されました。つまり、「たとえ」とは、既によく知られているこの地上の事柄を通して、未知の別世界のことを洞察させるものなのです。「神の国」という別世界のことを、民衆に直接的に理解させることはとても難しかったので、この様な方法、つまり「たとえ」を用いて語られたのです。
 21節に出てくる「ともし火」とは、御言葉の光の事であり、イエス・キリスト御自身の光ともいえます。隠されているものとは神の国の奥義のことで、人々には隠されていますが、主イエスは御言葉の灯によって神の国の奥義を啓示してくださいました。そしてこのたとえはまた、神の国の奥義が明らかになり、人々を照らす事を示しているのです。
 この4章には4つのたとえしかありませんが、主イエスは多くのたとえを話されました。しかし、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明されました。それは、主イエスに従って来た者を弟子とし、ご自身が、神の国を真の意味において実現する者であるという事を知らせるためでした。
 
 

1月30日(日)説教要約 マルコによる福音書1章35~45節「巡回宣教」

 
 主イエスは四人の漁師を弟子にして福音を伝えていた。その教えは律法学者のようにではなく権威ある者としてお教えになり、病を癒し、汚れた霊を追い出した。その様子を見ていた群衆によって、主イエスの評判はたちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。日中は多忙であった主イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。主イエスはしばしば祈られたが、その時には、父なる神様と祈って話しながら、全てが神の御心の通りになりますようにと祈られた。マザーテレサは、毎朝の祈りの時間が無ければ、自分がしているこれらの事を成し遂げることはできなかったと言った。また、ドイツの宗教改革者ルターも、今日は忙しい、だから今朝は三時間多く祈ろう、と言った。神に用いられたキリスト者たちは祈る事の大切さを知っていた。その事を知る人は、祈る事を通して、心が静まり、神の御声を聴くことが出来る。神の御声、それは聖書の御言葉であり、御声を聞くと言う事は聖書のみことばが思い出される事である。主の御声に聴く、主の御心を求める、そのためには主イエスがされたように静まって祈ることとそこから始める事が大切で、その事を大事を成し遂げた多くのキリスト者たちは証ししている。
 弟子たちが主イエスを探し出し、人々が主イエスを探していると聞いたとき、主は近くのほかの町や村でも宣教すると言われた。そのために私はこの世に出て来たのだと。そしてその言葉の通り、主イエスは各地を回って宣教し、悪霊を追い出された。
 その中で、重い皮膚病を患っている人が主イエスのもとに来た。彼は隔離された生活をしていたが、イエスの噂を聞いた時、この方こそ神が送ってくださった救い主に違いないと思った。そして、救い主ならこの病気も直すことができると信じ、主イエスの元にやって来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。するとイエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」主は、その人の信仰を見られて癒された。主イエスはこの病人を癒されたように、信じて心から平伏してへりくだるものを深く憐れんで下さり、手を差し伸べて下さり、体も社会的立場も完全に回復して下さる。

11月21日(日)説教要約 マルコによる福音書10章13~16節「子どもを祝福する」

 
 本日は収穫感謝礼拝を捧げます。また、同時に子どもの祝福礼拝としても捧げます。聖書の中には子どもを祝福するイエス様の出来事が書かれている個所がマタイ、マルコ、ルカの福音書に書き記されています。この時、弟子たちは、多くの人達がイエス様のところに来ていて、毎日とても忙しくされていることを知っていたので、イエス様の体の事を思って、つい、いつもより厳しい言い方で、子どもを連れて来て親たちを叱りました。親はただイエス様に祝福のお祈りをして欲しかったから、子どもを連れてきたのですが、この当時の社会の常識の中では、大先生のところに、大人でさえなかなか近寄れないのに、子どもを連れてくるなんて、という空気があったのでした。
 しかしそれを見たイエス様は、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言われました。それは、天の国はこの幼子のように自分を低くする者たちのものであるという意味です。そしてイエス様は子どもたちに手を置いて祝福されました。これは、当時としては驚くような出来事でした。しかしこの出来事で、それまで社会的には重要視されていなかった子どもに対する弟子たちの考え方や態度が変わっていったと思われます。そしてこの出来事を通して、初代教会以降の教会においては、神の祝福を子どもたちに積極的に与え、教える聖なる義務があるという認識が出来て、幼児教育や児童教育の働きが、教会の業として起こされていきました。

10月31日(日)説教要約 マルコによる福音書7章14~23節「堕落」宗教改革記念日

 本日は宗教改革記念日です。今から504年前の1517年の10月31日に、ドイツのマルティン・ルターが宗教改革を起こしました。この出来事は、ローマ・カトリック教会が、贖宥状を大々的に販売していた事が引き金となります。キリスト教会では、罪の赦しの洗礼が授けられますが、受洗後の罪の問題が生じてきます。カトリック教会では、罪の告白、告解と言われますが、懺悔をすることによって、神父から罪の赦しの宣言を受け、洗礼後に犯した罪の赦しを行っています。受洗後の罪について、様々な神学理解と会議とにおいて、罪に対する贖いの全面的免除についての儀式、方法が決められていきました。
 ドイツでは、教皇レオ10世が、サンピエトロ大聖堂の建築のために、大々的な贖宥状(免罪符)の販売を行ないました。免罪符は、人間が聖書の御言葉から外れてしまった事による罪の結果です。それはまた人間の堕落した姿、ローマ・カトリック教会の堕落し、腐敗した姿でもありました。免罪符の販売に疑問を持ったヴィッテンベルク大学の神学教授のルターが、1517年10月31日、ヴィッテンベルク城内の教会の門扉に貼りだしたのが『95箇条の論題』で、その日は万霊節の前日にあたる日でした。「万霊節」「死者の日」とは、その当時のキリスト教会では全ての死者の魂のために祈りを捧げる日となります。日本基督教団の教会の多くが11月の第一週に聖徒の日、または永眠者記念、召天者記念の日として礼拝を執り行いますが、それはこの万霊節の流れで行われています。また、多くのプロテスタント教会でも、11月のこの日に、死者をしのぶ礼拝を行っています。
 ルターは、当時のカトリック教会が正しい聖書知識に基づいた福音信仰に立ち返る事を望んでいました。彼が主張したのは、「聖書のみSola scriptura、恵みのみSola gratia、信仰のみSola fide」です。ローマの信徒への手紙1章17節「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです」これからも、聖書のみことばに従い、主の御心に適う信仰生活を共に歩んで行きたいと思います。
 

10月17日(日)説教要約 マタイによる福音書25章1~13節「天国に市民権をもつ者」

 本日の聖書本文は、十人のおとめたとえ話である。当時、ユダヤの結婚式は、花婿が花嫁の家に迎えに行った後、花婿の家で盛大な披露宴を行なった。準備の関係で、花婿はしばしば夜、花嫁を迎えにくることがあった。しかしこの聖書本文を見ると、花嫁の家で披露宴を行ったようだ。
 そのおとめの十人の内、五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火を持っていたが、予備の油を用意しなかった。一方、賢いおとめたちは、ともし火の他に花婿が遅くなることも覚え、予備の油を用意した。夜中になり、花婿到着の知らせがあり、愚かなおとめたちは、自分のともし火が消えそうになっていたので、賢いおとめたちに「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」と頼んだが、賢いおとめたちは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」と勧めた。
 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿がやって来て、花嫁と賢いおとめたちは花婿の家に行き、喜びの披露宴が始まり、その家の戸は閉じられ、愚かなおとめたちは、入ることができなかった。主イエスは、再臨の備えは他人ができるのではなく、めいめいがしなければならないと教えている。だから天国に市民権をもつ者は目をさましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないから。

10月10日(日)説教要約 マタイによる福音書22章15~22節「皇帝への税金」

 過越しの祭りが始まる時期に、主イエスはロバの子に乗ってエルサレムに入場した。それから十字架にかかるまでの最後の一週間の間に、宮きよめをし、そして人々に最後の教えをされていた。主イエスの教えと癒しの業は、まさしく神がこの方と共におられる事を示していた。多くの人々は、主イエスを信じたが、ユダヤ人指導者たちは主イエスに躓いていた。
 その中で、ファリサイ派の人々は主イエスを言葉の罠にかけようと相談し、ヘロデ派の者たちと結託した。本来、ファリサイ派の人とヘロデ派は、支配国ローマに対する考えが正反対であった。ファリサイ派はローマの支配は反対する立場で、ヘロデ派はヘロデ家から再び王を出したいがため、親ローマであった。
 当時のユダヤ人社会では、皇帝への納税の問題は社会的、政治的問題であると同時に宗教問題であった。彼らは主イエスに、どう返答しても困る結果となるローマの皇帝への納税に関して尋ねた。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」税金を納めるべきと言うならば、多くのユダヤ人の主イエスに対する期待を失わせることができた。他方、税金を納めなくてよいと言うならば、主イエスをローマ帝国の反逆者として訴え、ローマ権力により取り除くことができると考えた。
 主イエスは、彼らの悪意を知り、ローマ貨幣を見せるよう告げ、「これは、だれの肖像と銘か」と尋ね、彼らが「皇帝のものです」と答えると、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。地上の市民としての義務と責任を果たし、また、神の民として、全ては神からいただいたのだから、神にお返しする。神にお返しをするのはお金だけではない。礼拝と祈りと奉仕もまた神にお返しをすることである。

10月3日(日)説教要約 マタイによる福音書21章18~32節「信仰による生涯」

 本日は神戸平安教会の創立106周年の記念礼拝です。1905年明治38年旧メソジスト神戸教会(現 神戸栄光教会)平野日曜学校としてその歩みを始めました。その平野日曜学校は、10年後の1915年大正4年10月1日に日本メソヂスト神戸平野教会(兵庫区梅元町)として神戸栄光教会から分離独立し、教会を創立しました。神戸平野教会は1933年昭和8年ランバス記念幼稚園の経営を引き継いで、同幼稚園は教会付属幼稚園となります。教会学校の歩みから始まった教会らしい選択と決断がこの時に行われたのでした。
 その後1939年昭和14年、第二次世界大戦が開戦し、1942年昭和17年に国家権力によって日本基督教団が設立され、日本中のプロテスタント教会が一つの教団に収められ、その結果、神戸平野教会は日本基督教団の教会となりました。文章で読むと数行の出来事ですが、この当時の牧師、信徒たちの苦難と祈りの生活は厳しいものであったと聞いています。
 1944年昭和19年1月に日本基督教団神戸三宮教会と改称し、翌年、会堂は全焼して消失しました。その様な中にあっても教会は解散せず、その3年後の1948年昭和23年に大石教会と合併し、その様な中にあっても2つの日曜学校の分校を開設して子ども伝道にも励んできました。子ども伝道を使命と感じ、どのような状況の中にあっても前進しようとする教会員の信仰に敬服いたします。
 翌年1949年昭和24年7月に名前を日本基督教団神戸平安教会と改称し、灘区の今の地に教会を献堂し、ランバス記念幼稚園と共に今に至るまで信仰の道を歩んで参りました。そして1995年平成7年1月17日には阪神淡路大震災に罹災します。このように、多くの苦難のなかにあった教会の歴史でしたが、その中にあっても常に主の御手が共にあり、教会と教会員が守られていること、そしてどんな状況のなかであっても、伝道することを忘れずに、主に信頼し、主に従って行動する教会であり、教会員であることを、神戸平安教会の歴史を振り返りながら、改めて知る事が出来ました。私たちはその様な歴史を持ち、そのような伝道活動をしてきている教会に、今、神様によって集められている事を、教会創立記念日礼拝で確認できたことを感謝いたします。この信仰の灯を決して消してしまうことなく、灯し続けたいと思います。

9月26日(日)説教要約 マタイによる福音書20章1~16節「惜しみなく与える主」

 主イエスは天の国のたとえを語られた。ある家の主人がぶどう園を持っていた。彼はそのぶどう園で働く労働者を求めて夜明けに広場に出かけて行った。その広場は、日雇い労務者のための集まり場所になっていた。彼はそこで1日につき1デナリオンの約束で労働者を雇い、自分のぶどう園に送った。1デナリオンとは、当時の労働者の一日の平均的賃金である。その主人はまた9時頃に出かけていくと、何もしないで広場に立っている人々がいたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言うと、その人たちもまたぶどう園に働きに行った。その主人は12時と午後3時にも同じようにして、人々を雇った。午後5時にも広場に行った時、まだそこに人が立っていたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、彼らは、「だれも雇ってくれないのです」と言った。主人は彼らに、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言って彼らも雇った。
 ユダヤの労働時間は、朝の6時から夕方の6時までの12時間であった。律法では労働者の賃金はその日のうちに支払うようにと定められていた(レビ記19:13)ので、時間になった時にぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言い、彼ら全員に賃金を一デナリオンずつ支払った。すると朝早くから働いた者たちが「夕方からの者も同じなんて不公平だ」と文句を言ったが、主人は「私は皆に同じように支払ってやりたいのだ」と答えた。
 いつまでも広場にいた人びととは、仕事にあぶれて、行き場がなく、絶望を抱えつつ、広場に取り残されている人たちのことである。この主人は朝から労働していた者たちの貢献度を知っていたが、それにもまして、一日の生活に必要な賃金を全ての者に支払うことにより関心をもっていたのである。

9月19日(日)説教要約 マタイによる福音書19章13~20節「新しい戒め」

 13節「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」ここに出てくるこどもとは、赤ちゃんから幼児くらいの子どものことで、その親たちは、今まで聞いたことのない権威ある教えを語り、また多くの奇蹟をもって病をいやす主イエスに、手を置いて我が子を祝福していただくために子どもを連れて来た。これは、親たちが幼子たちを積極的に主イエス・キリストに導くことは大切な事であると認識していた、という事である。
 ところが弟子たちは多忙な師である主イエスの体の事を思って、つい親たちを叱ってしまった。しかしそれを見た主イエスは、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言われた。それは、天の国はこの幼子のように自分を低くする者たちのものであるという意味である。そして主イエスは子どもたちに手を置いて祝福された。この出来事で、それまで社会的には重要視されていなかった子どもに対する弟子たちの考え方や態度が変わった。そしてこの出来事を通して、その後の教会には、神の祝福を子どもたちに積極的に与え、教える聖なる義務があるという認識が出来た。
 また、ある金持ちの青年がイエスに教えを乞うた。彼は子供のころから、律法の実践に励んでいたユダヤ社会の優等生であった。彼は神の前に律法の示す功徳を積むことで、「永遠の命」が得られると確信していた。けれども、彼には律法の実践だけでは満たされない、欠けた思いが常にあった。彼はその満たされないものが、何であるかを確かめようとして、主イエスに近づいたのである。
 「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と聞く青年に、主イエスは「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と答えた。「まだ何か欠けているでしょうか」と言う青年に、主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と献身を勧められた。しかし、青年はそれに応じられず、悲しみながら立ち去ってしまった。彼は当時のユダヤ人の、富は神の祝福であるという考えと、自身の富への執着のため、新しい戒めを受け入れることが出来なかったのである。

9月12日(日)説教要約 詩編15章1~5節「隣人」

 詩編15編は、巡礼者たちが、神殿の門で聖所に入る資格について神に問いかけ、それに対して神殿にいる祭司から、神よりの答を受ける、という典礼歌である。神の独り子であるイエス・キリストが、神の前で、完全な人間としての生涯を全うして神の元にかえられたキリストの昇天を記念する詩編として用いられる。
 1節「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか。」イスラエル人にとって、元来、神が臨在する聖なる場所は移動している幕屋であった。しかしここでは、「幕屋」も「聖なる山」もエルサレムの神殿を指している。巡礼者は旅人である。そこに「住むことができる」というのは、聖なる神の臨在のなかにいる客人となることである。
 巡礼者の幕屋への入場を許可するのは神である。その神への問いかけに対する答えが2節以下である。「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり、舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず、賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人はとこしえに揺らぐことがないでしょう。」
 ここでの「正しい」とは、「完全」「完結」「健全」「無垢」を意味し、健全で神と人との前で欠けの無い生活を心がけるもののことを言う。信仰者がこの世にある時の、神に対する根本的信仰の態度が示されている。そしてその信仰者の神と隣人と自分自身に対する倫理的生活態度が具体的に指示されている。主日に礼拝をしてそれで終わりではなく、日々の生活の中で御言葉が生かされていく生き方をする。その時、5節の最後にあるように、神の言葉に従い生きる人には主にある永遠の平安が約束される。

9月5日(日)説教要約 マタイによる福音書18章10~20節「教会の一致と交わり」

 主イエスは、近づく受難を前にして、やがて生まれてくるキリストを信じる群れ、教会における倫理について教えられた。
 その中で、 小さい者即ち信仰の弱い者を躓かせないようにと、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」と言われた。主イエスの時代では、天使の存在が信じられていた。主イエスも、マタイの4章で、サタンの試みに会われて勝利された時、11節に「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」とある。ここでは、小さな者に仕えるためにいる天使が、父なる神のご指示を受けるためにいつも備えているから、彼らを軽んじないようにと言われた。主は小さい一人の魂でも失われることを悲しまれる。それを「迷い出た羊」のたとえを通して話された。
 また、主は罪を犯した兄弟に対しては、その兄弟を得るために悔い改めをすすめる手順を示された。まず一人で行って二人だけのところで忠告するように。もし聞き入れないならほかに一人か二人を一緒に連れて行く。これは申命記19章15節「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」に基づいて言われた。それでも聞き入れないなら教会に申し出なさいという過程を勧める。兄弟愛とは兄弟を罪から救うことであり、それは教会という共同体の責任であることを教えられた。
 18節「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」マタイ福音書16章19節でペトロを代表者として与えられた「天の御国のかぎ」が、ここでは「あなたがた」、つまり、「教会」にそれを行使する権能が与えられていることを示す。教会が聖霊の導きに従い、聖書に基づいてある時、そこには主にある一致と、主にある交わりが実現する。

 

8月29日(日)説教要約 マタイによる福音書13章44~52「究極の希望」

 
 主イエスが教えられた天の国についての7つのたとえの最後の3つ。天の国は、畑に隠された宝のようなものである。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買う。主イエスの時代では、貴重なもの、価値のある者を地中に蓄える事は最も安全な事とされていた。そして、その当時は、それを見つけた場合には、それを見つけた者が取得権を持つとされていた。しかしここで伝えたいことは、天の国がいかに大きな価値を持っているか、それを発見した者にとっては、全財産を売り払ってもそれを獲得したいと思うほどのものである、という事なのである。また、天の国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買う。
 このように、天の国は、畑の宝を見つけた者のように、偶然見つけて信じ救われた者にとっても、また、長い時間をかけてようやく出会って信じた者にとっても、大きな喜びがある。その天の国のことを伝えるために、そして招き入れるために主イエス・キリストは来られた。主イエスこそが新しい真理である。この天の国のことを発見した者は、ただ発見した事に喜びを得て終わるのではなく、大きな犠牲を払ってでも手に入れたいと思い行動する。天の国とはそのようなものだと言われた。
また、天の国は、湖に投げ降ろされた網でいろいろな種類の魚を集め、その網がいっぱいになると岸に引き上げ、座りこんで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるようなものである。最後の日には、天使たちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込む。彼らはそこで泣いて歯ぎしりする。
 主イエスが「あなたがたは、これらのことがみなわかったか。」と言うと、彼らは「分かりました」と言った。主イエスは古いものを保存しつつ、これを成就する新しいものを持っておられることを明らかにされた。主イエスの弟子も同様に、古く、かつ新しい真理の所有者、教育者であるべきである。一家の主人は、客をもてなすにあたり、客の必要と求めに応じ、古いもの、新しいものを倉から出してくる。天国のことを学んだ学者とはそのようなものである。私たちも主イエスの弟子として、弟子たちのように奥義を理解したい。
 

8月22日(日)説教要約 マタイによる福音書13章24~43節「忍耐」

 24~26節「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。」
 この前のところで、主イエスは、「種を蒔く人」のたとえについて話された。良い地に蒔かれた種が多くの収穫をあげることを話されたが、現実の世界では、それにさらに複雑な要素が入って来ることを、この「毒麦のたとえ」は教えている。25節では、〈人々が眠っている間に〉とあるが、これは油断や怠慢を意味する表現というよりは、むしろ、毒麦が悪者によって蒔かれるものであることを指している。
 27節で僕が、『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』と言っている。これは初代教会以来、現代の私たちの教会に至るまでの、教会の経験でもあるといえる。良い種がまかれた教会の交わりの中に、「どこから」入って来たのかと思われる毒麦が育っているのだ。しかし主人は、30節「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と言った。その理由は、毒麦は最初のうちは小麦とよく似ていて、収穫の時期になると識別しやすくなる。悪い麦を抜こうとして良い麦も一諸に抜いてしまう事があるため、収穫のときまでそのままにしておく。そして終末のときに神が裁く時まで、待っていなさい、という。
 しかしその一方で、「育つままにしておく」ことが重要なのである。世の中にあって、どうして神はこのような悪を取り除いて下さらないのだろうかと思う事がある。しかしその中にも、神の深い秘められたご計画が隠されていることがある。なぜなら、やがて時が来れば、毒麦は抜き集められ、良い麦である天の国の民は主人の倉に納められることが定まっているのだから、そのときまで育つままにしておきなさいというのだ。ここに、忍耐が求められる。箴言15章3節「主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。」(口語訳聖書)主は私たちの全てを見張っておられ、知っていてくださる。私たちは主を信じて、主のみこころに沿うように、忍耐をもって生きていきたい。
 

8月15日(日)説教要約 マタイによる福音書12章43~50節「家族」

 
 本日の聖書本文には、汚れた霊が人から出て行って、空になった家に大勢の仲間を連れて帰ってくるという譬えがまず語られている。悪霊を追い出したが、その心が聖霊に満たされていなければ、それを見た悪霊がさらに多くの悪い霊を連れてやってくると、最初の時よりもひどくなるという。
 その時、主イエスの家族がやって来て、群衆のため主イエスに近づくことが出来ずに外で立って待っていた。マルコ3章21節「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」母マリアが心配して、男の兄弟ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダを連れて、主イエスを連れ戻しに来ていた。その事を伝えた時、主イエスは、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われた。主イエスは決して肉の家族はどうでもよいと言われているのではない。むしろ家族を大切にしておられた。
 母マリアと兄弟たちは、この時はまだイエスがメシアであることを理解していなかった。しかし、十字架の死と復活の後、彼らは、イエスが神の独り子であり、救い主メシアであることを信じるようになっていた。主イエスの昇天を後、彼らは使徒や弟子たちと共に熱心に祈っていた。特に兄弟のヤコブはその後初代教会の指導者の一人となった。新約聖書のヤコブの手紙は、使徒ヤコブではなく、主イエスの兄弟であるヤコブが書いた手紙である。その中でヤコブは、自分のことを「主イエスの兄弟」とは書かず、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と書いている。彼は、主イエスの兄弟でありながら、血のつながりを超えた天の国における主にある家族、神の家族であることが、より大切であることを知ったのだ。「神の家族」そこには、神の愛を中心にしたつながりがある。そしてそれは、私たちにとって、最も深く、大切なことなのである。
 

8月8日(日)説教要約 マタイによる福音書10章16~25節「苦難の共同体」

 主イエスが12人の使徒を2人ずつになって宣教に派遣します。その使徒たちに主イエスは、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われました。これから使徒たちが主イエスからの使命に従って生きて行こうとする時に出会うであろう国家権力、宗教権力、また家族からの迫害による苦難について語られました。そしてそれに対処するにあたっての心構え、原則として、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさいと教えられたのです。特にキリストの復活後の初代教会の時代が始まってからは、この主イエスの言葉は弟子たちの心に響いていたことと思います。マタイはこの主イエスのことばをしっかりと書き残しています。
 これからの使徒たちの生活には具体的にどんな危険が待っているのかを話されました。主イエスに従って神の国の福音を伝えていると、地方法院に引っ張って行かれ、裁判にかけられ、その結果会堂でむちで打たれてしまいます。さらにはローマ総督やヘロデ王の前に引き出され、ユダヤの宗教裁判にかけられるばかりか政治犯として捕らえられ、国家的裁判にかけられると言うのです。裁判になったら、ユダヤ人指導者たちヘロデ王だけでなく、異邦人であるローマ総督の前でも申し開きをしなければなりません。しかし、主イエスは、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」神の霊が、福音を伝える者のうちにおられて、話させて下さる。だから、何も怖がるな、信じて歩みなさいと言われているのです。
 そして歴史は、恐れずに福音を伝えた結果、今世界中にキリストの福音は広められています。恐れるな、私を信じて歩みなさい。主の御声は今日もキリストを信じて歩む者に語り掛けられています。たとえ今、苦難の中を歩んでいたとしても、キリストにあって、キリストと共に歩んでいるならば、私たちには恐れる事はありません。主にある平安と主にある平和を携えて、これからも「蛇のように賢く、鳩のように素直」な信仰を持って歩んで行きたいと思います。

8月1日(日)説教要約 マタイによる福音書10章5~15節「宣教への派遣」

 
 今日は平和聖日です。日本基督教団では、原爆が投下された広島や長崎の記念として、そして8月15日の第二次世界大戦における敗戦の日のことを心に留めて、敗戦の日の月である8月の第一の日曜日を、特に平和聖日礼拝と定めて守っています。
 真の平和を私たちに下さった救い主イエス・キリストの福音を伝えるために、主イエスは12人の弟子を使徒として任命し、派遣しました。主イエスは彼らに異邦人やサマリア人のところに行くなと言われています。キリストの福音は、まずイスラエルに対して伝えられました。なぜなら、主イエスの時代のイスラエルの民の状態は、飼い主のいない失われた羊のようであったからです(9章36節)。だから、彼らに御国の福音を伝える必要があったのです。そしてその必要に答えるために、主イエスは使徒たちを派遣したのでした。
 ではここで使徒たちは何を伝えるのか。それは、7節「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」主イエスが最初から語られていた宣教の言葉です。そして、8節「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」福音宣教をする時に、みことばを伝えますが、それに加えて、その人が神から遣わされたものであるということの証拠として、大きなしるし、奇蹟を行うという使命も彼らに与えられました。そしてそれを命令したのは、神の独り子であられる主イエス・キリストです。神の命令だからできるのです。そしてこの命令は、新約聖書の時代、使徒たちの時代に与えられた使命でもありました。
 9~10節は宣教者としての心得となります。つまり、神の国の福音を伝える時には、その全てを満たして下さる神を信頼して出て行くように、という事です。
 11~13節「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。 12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。 13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」平和、シャロームというイスラエルの挨拶ですが、それはまた祝福の挨拶でもあります。
今日は平和聖日です。主の平和が、全ての人に伝えられますように。主の平和が全ての人に受け入れられ、この地にとどまりますように。そして私たちも「キリストの弟子」として、主イエスに遣わされた者として、忍耐と寛容と柔和さをもって、この世にあって、平和を作り出す者となりたいと思います。
 

7月25日(日)説教要約 マタイによる福音書9章9~13節「憐れみの福音」

 
 本日の本文では、罪を赦す権威を持っておられる主イエスが、罪人を招いておられることを見ることができる。主イエスは、伝道の拠点とされていたカファルナウムに来て、取税所に座っているマタイを見られた。マタイは取税所に座っていたということは、いつも通りに勤務していたようである。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマ帝国への税金が徴収されていた。その職を担っていたのが現地の徴税人であった。彼らは同胞から、ローマに収める以上の税金を取って私腹を肥やしていたので、人々から罪人の一人として数えられ、一般のユダヤ人からは避けられていた。その徴税人のマタイを見た主イエスは「わたしに従いなさい」と言われると、マタイは立ち上がって、徴税人である事を捨てて主イエスに従った。
 この後、マタイは主イエスを自分の家に招待して、宴会を開く。そこにはゲストとして徴税人や罪人も大勢やって来て同席していた。そこに、この宴会を非難するファリサイ派の人々が来て、弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。主イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。主イエスは、ご自身の来られた目的が、自分の病気に気がついている者たち、自分の罪を知り、悲しんでいる者たちに、神の憐れみによる救いを告げるためであるということをはっきりと示された。そしてホセアのことばを学んだなら、イエスが罪人を招くために来たというその目的と使命とを正しく理解すると言われた。しかしファリサイ派の人々は理解できなかったため、12章7節で再び同じことを注意される。
 マタイは主イエスの十字架の死と復活、そして聖霊体験を通して、この主イエスの憐れみの福音の素晴らしさを確信し、それを伝える者とされた。

7月18日(日)説教要約 マタイによる福音書8章5~13節「異邦人の救い」

 ユダヤ人は神様に選ばれた特別な民という意識から、異邦人に対して差別をしていました。本日の話の中心は、この異邦人の救いについてです。
 5~6節「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。」主イエスのガリラヤでの宣教活動の拠点となった場所がカファルナウムです。そこはローマ軍の駐留地であり(マタ8:5‐8)、収税所がありました(マコ2:14)。著者マタイにとって、主イエスに出会い、弟子として頂いた大切な思い出の地でもありました。そのような所ですから、ローマ兵とその家族がその地域に住んでいました。百人隊長も主イエスの噂を聞いていたに違いありません。この時、百人隊長が息子のように可愛がっていた僕がいて、ひどく苦しんでいると主イエスに告げたのでした。並行箇所であるルカによる福音書7章3節では、お使いの長老たちがイエスのもとに来て、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と熱心に願ったほど、ユダヤ人を大切にしていた百人隊長だったようです。
 それを聞いた主イエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。当時のユダヤ人は異邦人とは交わりを持とうとはしなかったことを思えば、常識はずれのことばであり、行為であると言えます。
 8~9節「すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスに向かって「主よ」と呼びかけたということは、この百人隊長はイエスを救い主と信じていたとも言えます。しかも彼は「権威」を知っていました。10節「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」この時点での当時のユダヤ人の中にはこのような信仰を告白する者は一人もいなかったようです。その信仰とは、「主イエスの権威に対する信仰」です。百人隊長は、神の御子の権威に対する信仰を告白したのでした。
 13節「そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」ことばによって天地万物を創造された主イエスは、そのことばによって人を癒されました。キリストのことばには力があります。異邦人であっても、キリストを信じ、神から来る権威を信じていた時、その人も僕も救われたのです。 

7月11日(日)説教要約 マタイによる福音書7章15~29節「生活の刷新」

 本日の聖書箇所は、山上の説教の最後の部分となる。13節で、「狭い門から入った」者は、次に「偽預言者たちに気をつけなさい」と警告されている。偽預言者は旧約聖書の時代からいた。ここで言う偽預言者とは、「律法学者」「ファリサイ人」と呼ばれた人たちのことになる。彼らは神が与えられた律法を解釈して多くの規定を付け加えた。人々を律法によって束縛していた教えは、律法を破る者に死を与える神を恐れさせることによって神に従う者となるようになっていたが、その背景には貪欲が隠れていた。主イエスは律法の本当の意味を教えてくださったが、このことがユダヤ人全体に大きな反響と影響を与え、ユダヤ人指導者たちには自分たちの足元を揺るがす大きな脅威と映った。
 ペトロやパウロがいた初代教会においても偽預言者、偽教師が表われ、新しく生まれた教会とクリスチャンたちを陥れていた。そして、今日においても、将来においても、そのような偽預言者は現われる。それに備えて、私たちは主イエスの正しい教えを常に学んで行かなければならない。
 ところで、その偽預言者を私たちはどうやって見分ける事ができるのか?それは、その実によって彼らを見分ける事ができるのだと言われた。しかしよく考えて見てみると、これはまた、「偽預言者たち」を見分けることがいかに難しいものであるのかという事も示している。なぜなら、実が実るまでは、その真偽が分からない事があるからである。
 21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」天の御国に入る条件がここに示されている。それは、口先だけで神様をたたえるのではなく、「天の父の御心を行う者だけ」が天の御国に入る事が出来るのだという事である。「かの日」とは最後の審判の日の事である。
 私たちがキリストに結ばれて、それまでの間違っていた〈常識〉や〈言い伝え〉という罪の生活から抜け出し、福音に根差した生活に刷新するためには、岩なるキリストを土台として、その信仰の生活を送らなければならない。そしてそれを可能にするのは、キリストのことば、神の御言葉を土台とした信仰生活を送る事である。しかしなかなかできない事もあるが、共にいて下さる聖霊なる神が、神のみこころを可能としてくださり、みこころに生きる力をくださる。聖霊はキリストの霊である。聖霊の導きによって、御言葉に聞き、信じて、神のみこころに生きる者となりたいと思う。

7月4日(日)説教要約 マタイによる福音書7章1~14節「祈り」

 祈りとは、霊的な呼吸である。どうして私たちは神に祈るのか。それは、主イエスご自身も祈っておられたからである。(マルコ1:35)私達も祈りの模範者である主イエスの様に、絶えず祈らなければならない。
 7節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」ここで「求めなさい」と主イエスが教えておられるのは「何も求めない」という誤りに陥りやすいからである。なぜならこの直前に主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と言っておられるからである。これを聞いた群衆が、「衣食住などを願い求めるべきではない」と間違って受け取ってしまい、「神にすべてをゆだねるなら、神に願い求める必要はない」という誤りに陥らないようにするためである。主イエスは「心配するのを止めなさい」と言うと同時に「求めなさい」と言っておられる。続けて求める事、続けて探すこと、続けて門をたたく事。この主イエスの命令に従う時、私たちは天の国の宝をいただくことができる。
 8節「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」神様の祈りの応答には4つのタイプがある。①即答。②NOだめだ。③待ちなさい。④代わりのものを下さる。
 主イエスの語る天の御国の福音の教えでは、イスラエルの神は善いお方であり、自分の子には最も良いものを与えたいと願っておられる父である。そして神をそのように呼ぶことは、イスラエルの人々には驚きの出来事でしかなかった。さて11節で「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださる」という「良いもの」が何であるのかはマタイには書かれていないが、ルカはそれが「聖霊」であると書いている(ルカ 11:13)。「聖霊」は「天の御国の福音」 をこの地上に目に見えるかたちで実現させるためには、なくてはならない私たちに与えられた神さまからの賜物なのである。
 また祈りというのは、関係性を持っているものである。12節「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」聖書の中で黄金律と言われている個所である。ここでは人間関係を大切にする事、これが律法と預言者、つまり旧約聖書全体が求めている生き方だとイエスは解き明かされた。「おのれの欲せざるところは人に施すことなかれ」という儒教の孔子の教えがあるが、そのことばより、主イエスの黄金律は積極的である。

6月27日(日)説教要約 マタイによる福音書6章22~34節「主にある共同体」

 「主にある共同体」とは、主イエス・キリストによって集められた共同体、教会のことである。初代教会では主の再臨がすぐに来ると思っていたので、人々はその生活のすべてを主イエスの教えを基に共に生活をしていた。
 ペンテコステ、聖霊降臨によって始まったキリスト教会は、その後厳しい迫害の時代を迎えるが、人々の祈りと迫害によってますます強まる信仰と伝道に、ローマ帝国内には多くのキリスト者が生まれてきた。そのような波の中で、ローマ帝国は313年にミラノ勅令でキリスト教を公認する。それ以降、教会は政治的な力を持ち始め、富と権力を手にするようになった。
 ところが、歴史を通して、私たちは人々が富と権力を手にした時に、堕落していく姿を見る。教会のすべてが堕落した訳ではないが、一部の弱い人間はその魔力に惑わされて罪を犯してきた。24節「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」悪魔が人間を最も簡単に誘惑できるもの、それは富と権力である。富に対してどのような考え方と態度を持つかによって、私たちは神の子となるか、悪魔に支配されたものとなるかが決まると言っても過言ではない。また権力も、富がついて来る時、さらに人々の心を惑わせる。
 聖霊を受けて始まった初代教会の人たちは人と自分を比べて見たり、人に嫉妬したりする心はなかった。そして誰ひとり「これは自分のものだ」とは言わないで全てに感謝して、他者を思いやり、精神的に非常に満足した生活を送っていた。それによって、主にある教会共同体は一層強くされていた。使徒言行録を見ていると、教会としてすべてを共有していたが、それは自発的な行動であって、決して強制ではなかった。しかし、この共同体の在り方は永続的なものでもなかった。ただこれは必要に応じ、必要な時に実行された出来事であったようだ。
 バルナバを代表的弟子の一人とする初代教会のクリスチャンたちは、ただ主イエスの教えに忠実なだけであった。33~34節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」この主イエスのみことばを信じ、みことばに生きていたのだ。
 ただ主に仕えて、主の導きに従う者の集いであった。そのようなキリスト者たちの喜びの生活と主に仕える行動が、300年近くたって、迫害するローマ帝国に、その国教となる決断をさせた。またバルナバのように、一人の大伝道者を作り上げるために用いられた。そして今日に至るまで、多くの人々がキリストの元に導かれ、名もなきキリスト者の一人として、しかし多くの業を成し遂げている。私たちもそのような主にある共同体の一員であることを覚え、これからも何よりもまず、神の国と神の義を求めて生きるキリスト者でありたいと思う。

6月20日(日)説教要約 マタイによる福音書5章21~37節「新しい義」

 主イエス・キリストがこの世に来られた事は、神の御子キリストが私たちの間に来てくださった事であり、天の国が到来したという意味がある。御子はまた、父なる神と共に天地創造の業から共に参与しておられ、人に与えられた十戎の意味するところをよくよくご存知であった。だから、御子は21節以下では、天の国に生きる者と律法との関係について語られる時、神がどのような意図でこの戒めや律法を授けられたのか、その解釈についての新しい教え、新しい義について教えてくださった。十戎は神が直接モーセに授けられた掟である。その中から「殺してはならない」「姦淫してはならない」の2つが取り上げられている。ここで主イエスは、「あなた方も聞いているとおり、○○○と命じられている。しかし、私は言っておく。」という形式で6回語っている。これは、神が与えられた律法の教えに対する律法学者の誤った律法解釈を否定し、厳しい口調で新しい解釈、神の視線からの解釈を語られた時の形式である。
 「殺してはならない」とは、単に殺人を犯すことだけを言うのではなく、兄弟に腹を立てる事も含まれている。23~24節「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」とある。礼拝に出て捧げ物をすることは、罪のために関係が切れてしまった神との関係の修復がその目的であり、贖罪・賠償・和解などの目的がある。しかし、怒りや怒りの表現がそのように殺人罪に問われるのであるから、もし自分が人にそのような恨みを抱かせるようなことをしていたのを思い出したなら、供え物をささげている途中であっても、それを中断して、まず相手のところに行って和解し、それから供え物をささげなさいと、主イエスは命令される。
 姦淫については、申命記22章以下に詳しく規定されている。姦淫とはすでに結婚している関係であるから、他の夫婦の誓約の中に割り込む罪であり、自らの誓約に対する背信行為、裏切りである。「みだらな思いで他人の妻を見る」のは、第十の戒め(出エジプト20章17節)をも破ることになる。主イエスは道徳的に健全な生活をするようにと教えられた。
 離婚してはならないと言うのは、当時の律法学者は妻に離婚状を簡単に書くことができると言っていたからで、主イエスは女性の立場を守る意味で教えておられる。ここでも主イエスは、自分勝手な律法解釈に対して、間違いを指摘された。
 そして主イエスは誓ってはならないと言われる。律法学者たちは誓いを二種類に分け、神の名によるものは絶対に守るべきであるとし、神の名によらないものはその限りでないとした。誓う時に神の名を使ったら神は関係してくるが、使わなかったら関係してこないというのがその考え方である。主イエスはこの詭弁的偽善を指摘しておられる。このように、天の国は、神の律法が私たちの解釈や努力によってではなく、徹頭徹尾、神によって成就する世界なのである。

6月6日(日)説教要約 マタイによる福音書3章1~6節「悔い改めの使信」

 バプテスマのヨハネはメシアの前に遣わされる預言者として特別な存在であった。旧約時代の最後の預言者であり、新しい時代への橋渡しをする人であった。
 彼は、預言者イザヤによって預言されていた「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(イザヤ書40章3節)と言われていた者である。バプテスマのヨハネは、イスラエルの最後の預言者であった。彼は四百年もの長い預言の沈黙の期間を破って「荒れ野で叫ぶ者の声」として現われた。そしてメシアの到来の近くなった時、人々に対して、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と告げた。
 ヨハネは預言者エリヤのように毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とするといった質素な生活をした。また、エリヤがカルメル山でイスラエルの人々に激しく決断を迫ったように、悔い改めの宣教をすると、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、群衆がやって来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ここで、バプテスマのヨハネが現れたという表現の中に、ユダヤ人たちの憧れていた「救い」の時代が「到来した」という喜びを、私たちは見る必要がある。マルコによる福音書1章4節では、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とある。バプテスマのヨハネは、罪の赦しを得るための悔い改めを説き、そのしるしとしてバプテスマを授けていたのである。
 そのヨハネの使信は単純明快である。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。「悔い改め」のギリシャ語「メタノエオー」の中心的意味は、「心の方向転換」である。過去に犯した罪やあやまちを後悔することや、悲しむことを意味しているのではない。そうではなく、心を入れ替えて、態度が変化をすることを意味している。ただ感情的なのではない。それよりはむしろ道徳的、意志的な意図を持って、全人格的に変化することである。なぜなら、この悔い改めは「天の国は近づいた」から必要となってきたのだ。ヨハネの言う悔い改めは、現世における罪の悔い改めでもありながら、天の国の到来、すなわち最後の審判への準備でもあるのである。
 ヨハネの偉大さはその働きの中に見ることが出来る。彼は特別なしるしや奇跡を行なったとは書かれていない。単純に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説いた。彼はエリヤの霊と力を持って来たのに、エリヤのように天から火を呼んだり、人を生き返らせたりはしなかった。
 またヨハネは一か所にいたのではなく、伝道のためにヨルダン川沿いを歩き回って宣べ伝えた。こうしてヨハネの説教は人々の間に広がり、イスラエルの全域から群衆がヨハネの元に集まってきて、その信仰と行いを悔い改めてバプテスマを受けた。彼らは、時が来て、神が遣わされた最後の預言者、バプテスマのヨハネの悔い改めの使信を聞いて、その魂が揺さぶられ、罪の赦しを受けて真の救いの道を知った。そしてバプテスマを受けて救われたのである。

5月30日(日)説教要約 マタイによる福音書11章25~30節「神の富」

 主イエスが福音を宣べ伝えられた時、教えと多くの奇蹟によって、ご自身が神から遣わされた者である事をお示しになった。それを聞いて見た人々は、熱狂的に主イエスを信じて従った。しかし時が経つと、主イエスを信じるどころか、拒絶し反対する者が現われていた。そのような者が多くいた悔い改めない町に対して叱られたその時、主イエスは御父を仰ぐことによってその憤りを完全に捨て、ご自身を信じて従う弟子たちの救いをこそ喜ぶ喜びに満たされておられた。
 ではどう祈られたのか。主イエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」と祈られた。祈りは祈る人の心からの姿勢を示す。この感謝のことばは、主イエスが父なる神の御旨に全面的に従っておられることを示す。そして、イエスがキリストであるという福音の真理について、目を閉ざした者もいるが、幼子のように受け入れるものにはそれが示されていると言う。福音の真理を知るには、主イエスの啓示が必要なのである。
 そして言われた。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 この世にあってキリスト者としての人生を送ることは、決してたやすいことではない。しかし、キリストがともにいてくださる。それゆえに、荷は軽いのである。主イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われる。イエスの荷が「十字架」であるならば、とても軽いとは思えない。それなのになぜ軽いと言われるのか。それは、わたしたちの軛・重荷を主イエスが共に担ってくださるから「軽い」のである。主イエスはすべての重荷をみずから負い、イザヤ53章の「苦難の僕」のように、みずから懲らしめを受けられた。それは、われわれに平安を与えるためである。そしてわれわれを招かれる。彼は子羊のように柔和で、謙遜なお方である。主イエスは上から目線ではなく、「柔和で謙遜な」人生のコーチである。なぜなら、イエスご自身が、苦しみを受け、恥を受け、拒絶を受けたことがあるからである。このイエスが手をとり二人三脚どころか「くびき」を負ってくださると言われる。それは、「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と約束して下さる。この主イエスと共に歩み、魂の安らぎを常にいただく者となりたい。

5月23日(日)説教要約使徒言行録2章1~11節「聖霊の賜物」ペンテコステ礼拝

 教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日である。イエスの復活を祝うイ―スターの日から五十日目に当たる日に、聖霊が降ったことから、この日を「ペンテコステ」という。主イエスの昇天後、使徒たちはすぐに彼らが泊まっていた家の上の部屋に集まった。十一使徒は、婦人たちや、イエスの母、兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。このようにして、五十日間、主イエスが約束された聖霊の到来を待っていたことが、最初の教会誕生のための準備の期間となった。
 エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた。エルサレム巡礼に来て、一時的に滞在していた人もいた。エルサレムに住むこのような大勢の人が、この聖霊降臨の出来事の物音に集まって来た。だれもかれもが、自分たちが生まれた故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。自分たちの外国の生まれ故郷の言葉を、ガリラヤ出身の使徒たちが話すのを聞いて驚いたのである。この時の聖霊の賜物は異なった言葉で語るという奇跡的な賜物であった。
 聖霊はわたしたちに聞く価値のあることを語らせてくださる力であり、聞く人に希望と命と力を与える。聖霊はイエスの十字架と復活を証言する力であり、教会を全世界へと押し出す原動力である。これからはもっと聖霊に満たされて歩みたい。
 聖霊の賜物は、生まれつきの才能とは少し異なる。勿論、全ての人に与えられている才能も、神から与えられたものである。教会はクリスチャンに交わりの機会を提供し(各機関、祈り会等を含む教会に関したすべての交わりの機会)、兄弟姉妹たちとの霊的な交わりを持つことによって賜物を見つけられるようになる。賜物を見つける最も確実な方法は、自分がやっている奉仕にやりがいを感じていること、それが教会のためになること、他の方々が慰めと平安を得ているかを確認することである。すべての賜物は、自分のためにではなく、教会で徳を高めるために与えられている。自分が属している教会の発展のために、自分にできること、自分の賜物を十分に生かすことができれば、それこそ私たちのなすべきことである。聖霊は、このようにクリスチャンがそれぞれの賜物を見つけ、教会員として奉仕できるように導かれる。

5月16日(日)説教要約ルカによる福音書24章44~53節「キリストの昇天」

 主イエスの昇天物語はルカによる福音書と使徒言行録にのみ記されている。主イエスが昇天されたのは復活後40日目で(使徒1:3)、場所は「オリーブ畑」と呼ばれる山(使徒1:12)である。ルカによる福音書24章50節では昇天の場所は〈ベタニア〉と記されている。
 天に上げられるということは、弟子たちから離れることであり、彼らにとって本来悲しい出来事であるはずである。しかし、弟子たちは十字架の死によりイエスを失った時のように、悲しみにくれるようなことはなかった。弟子たちにとって、この出来事は、イエスが遠くへ行ってしまうということではなく、むしろ逆に、天の神が近くなり、救いの世界が近くなるので、喜ばずにはいられなかった。
 本日の本文を見ると天に上げられるイエスを見て、弟子たちはイエスを伏し拝んだ。この「伏し拝む」は「礼拝する」ことを表す言葉で、この福音書の中で弟子たちがイエスを礼拝したと記されているのはここだけである。弟子たちはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。ここで初めて弟子たちはイエスとはどういう方であるかを本当に理解するようになった。こうして、主イエスが弟子たちに特別な形で姿を現す期間は終わり、目に見えない形で彼らとともに歩み続ける時代が始まる。
 私たちの歩みは肉体の死で終わる歩みではなく、死を通って最終的に神さまのもとに、天に至る歩みなのである。昇天はつねに神秘として残るものである。イエスの姿がだんだん小さくなり、ついに見えなくなったということは、とても考えられないことだった。それは人々の信仰をくじく効果しかなかったはずである。またキリストの昇天とは、地上のイエスが、天のキリストとなる日だった。しかし弟子たちにとっては、昇天は明らかに次の事を意味していた。歴史的なイエスという血肉をそなえた人を信じていた時代は終わった。
 しかし同時にそれははじまりだった。弟子たちは意気消沈してその場所を去ったのではない。もはや何ものも、自分たちから師を引き離すことができないことを知ったからである。さらに、キリストの昇天は弟子たちに地上にだけでなく、天にも自分の主がいるという確信を与えた。

5月9日(日)説教要約マタイによる福音書6章1~15節「イエスの祈り」

 主イエスは弟子たちに、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と言われ、祈りを教えてくださった。主イエス・キリストが教えてくださった祈り、主の祈りである。ではなぜ主イエスは「こう祈りなさい」と言われたのか。それは、当時のユダヤ人たちの祈りの生活には、祈りの偽善が蔓延していたからである。
 この祈りは、「天におられるわたしたちの父よ」という御言葉で始まる。祈る時には、誰に向けてするべきかが大切であることを教えてくださった。祈りの対象は天の父である。「御名が崇められますよう」というのは、私たちに神だけを礼拝し、神がどういうお方かを知って賛美することを教える。
 主が私たちに教えてくださった次の祈りは、「御国が来ますように」私たちの信仰の目標はまさに、この「神の国」「天国」だと言うことができる。この神の国に関する表現だけでも福音書では100回以上も使われている。
 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」とは、私たちに、自分の生活にも世界においても、「自分の」ではなく「神の」ご計画が為されるように祈るべきだと言うことを思い出させてくださる。私たちは自分の願望ではなく、神のみこころがなされるようにと祈るべきなのである。 
 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と言う祈りは、私たちの必要を神がかなえてくださるようにと祈ることを勧めている。              
 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」 とは、神に自分の罪を告白し、神が私たちを赦してくださったので、人を赦すべきだということを覚えさせる。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」とは、罪に打ち勝つために助けを願い、サタンの攻撃からの守りを願うものである。
 主イエスが教えてくださった祈りの最後は「国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり。アーメン」である。これは私たちが祈りを捧げる目的、内容、その過程が最終的に何のためであるのかを教えているのである。
 祈りの最後には「アーメン」と言う。「アーメン」とは「そのようになされることを願う」という意味を持つ。祈りに対する神の応答の確実さが、アーメンを通して確証されることを教えるのである。

5月2日(日)説教要約ヨハネによる福音書14章1~11節「父への道」

 最後の晩餐の時、主イエスは弟子たちのところから去って行かれる事を話された。地上を去る日の近いことを聞かされた弟子たちが動揺するのを見過してイエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じる。主イエスは弟子たちに希望と平安を与えるために、「父の家」について語られた。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」父の家に迎え入れられる事、それはイエスを主と告白し、従って来た彼らが受ける報い、天における祝福である。またそれは単なる慰めの言葉ではなく、弟子たちへの約束であった。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」という主のことばをよく理解できなかった弟子の一人であるトマスは、主イエスに率直に質問した。主イエスは「「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と、ご自身が道であると宣言された。その道はどこに通じる道か。それは父なる神が住まれる天国へと通じる道である。主イエスは私達と神との間に和解をもたらし、私達が神へと向かう道、天国の道を拓いてくださった。私達は主を通って天におられる神の元に行ける。そこで主と、神とに出会い、また、愛する者と再会することができる。
 このように主イエスの言葉は、天の父への道を指し示すものであった。即ち、主イエスを知ることが道であり、しかも天の父の御許へたどり着く唯一の道である。主イエスを知るようになった人は、天の父をも知るようになる。このように御父と御子は一つなのである。その意味で,イエスを見た者は父なる神を知る者であり、父を見た者である。それに対して、続いてピリポが「父を見せてください」と求める。主イエスが答えられた、わたしを見た者は父を見たのであるとは、御子が御父におり,御父が御子におられるという一体性を教えられている。
 主イエスの言葉とわざとがイエスをお遣わしになった方の言葉であり、教えであるということについても、何度となく言及されていた(3:11,5:19,8:28)。その意味でイエスを見た者は父を見たと言うことが出来るのである。主イエスこそ私たちが父なる神へ進むべき真の道であることに感謝しよう。

3月14日(日)説教要約マタイによる福音書17章1~13節「主の変容」

シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしてから、主イエスはご自身の苦難の道を弟子たちに話し始められた。それから6日後、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて、祈るために高い山に登られた。その山上でイエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。モーセとエリヤが出てきて主イエスと話し合っているのをペトロは見た。モーセは律法の代表者であり、エリヤは預言者の代表者である。つまり、モーセとエリヤは旧約の代表者と言える。ペトロがイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と。

 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。主イエスは、どんな偉人とも同列に置かれるべきではない。私たちの唯一の救い主、また王なのである。 

イエス・キリストは、旧約聖書の預言通りに来られ、救いの預言を成就するために、これから苦難の道を行かれようとしている。この世での最後の時が近づいた時、弟子たちに、その事をはっきりと示すために、また、その後に弟子たちに起こる大迫害の時にも、確かにイエスが神の御子であったことを確信させるために、ご自身のまことの姿を見せられた。

3月7日(日)説教要約マタイによる福音書16章13~28節「受難の予告」

主イエスは「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子たちに訊ねられた後、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれた。これに対してペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をする。このペトロの信仰告白を一つの転機として、主イエスの行動は、次の段階、十字架への道へと移る。ここでイエスは四つのことを予言した。(1)エルサレムに行くこと(2)長老たちから多くの苦しみを受けること(3)殺されること(4)三日目に復活すること。しかし、弟子たちは理解しなかった。

マタイ16:22「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言った」。するとイエスはペトロに言われた「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔する者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。そして言われた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

主イエスに従うとき、復活の栄光にあずかるための私たちの負うべき十宇架をも主が備えて下さる。主イエスが先立って十宇架を背負われ、その主イエスの後に従って私たちはただ歩むだけなのである。イエスご自身が受けた受難の十字架を通して、私の復活に至る道が備えられた事に感謝する。

2月28日(日)説教要約マタイによる福音書12章22~32節「悪と戦うキリスト」

本日の聖書箇所は、主イエスとファリサイ派の人々との間でおきた論争について書かれている。主イエスが「目が見えず口の利けない」身体の不自由な人をいやされたことがことの発端である。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」、つまり、メシアではないかといぶかり始めて言った。「ダビデの子」とは、メシアに対して使われていた称号である。

ところが、ファリサイ派の人々は悪霊から解放された人の事を喜ぶどころか、むしろ「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。彼らは、主イエスにおいて、神の霊が働き、悪霊、悪の力、罪の力が打ち破られていること、そして、それによって神の国が到来している、ということを認めたくなかったのである。

それに対して主イエスは、内輪もめすると内部分裂してしまう、「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」と反論した。そして、「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。」と言われた。これは一般のユダヤ人魔除け祈祷師のことで、彼らも悪魔の仲間とされてしまう。そうなると、彼らがファリサイ派を裁く者となる。また、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と指摘する。つまり主イエスは、神の恵みの支配が始まっていると言われたのである。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」これは神と悪魔は敵対関係にあり、そこでは中立状態はあり得ない事を示している。

主イエスはさらに「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と言われた。私たちは神の恵みの慈しみと厳しさをしっかりと心にとめなければならない。

2月21日(日)説教要約マタイによる福音書4章1~11節「荒れ野の誘惑」

バプテスマのヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、人々に洗礼を授けていた。イエスは、そのヨハネのところで洗礼を受けられた。イエスが水の中から上がられると、天がイエスに向かって開き、神の霊が鳩のようにイエスご自身の上に降ってきた。その時、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえた。父なる神の声である。この出来事の後に、本日の聖書本文が書かれている。

ヨハネからバプテスマを受けた主イエスは、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食の祈りをされた。するとそこに、悪魔がやってきてイエスを試みた。悪魔の誘惑である。聖霊を受けた者は、主が共におられる事を実感し、自身の心が清められ、喜びと平安に包まれまる。しかし、聖霊に満たされた者はまた、荒れ野へとその道を歩むことになる。そしてそれは聖霊に送り出される道でもある。荒れ野は、神との交わりの場、祈りの場でもあり、またサタン、悪魔が誘惑してくる場でもある。

断食をして、おなかをすかしている主イエスに、サタンは「この石に命じてパンにしてみろ」と言うと、主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と申命記8章3節の言葉でそれを拒否した。次にサタンは高い所に主イエスを連れて行って「ここから飛び降りてみろ。神の使いがお前を支えてくれるだろうから」というと、主イエスは、「神を試みてはならない」と申命記6章16節でサタンの誘いを退けた。そして最後にサタンは、この世の富と栄華を見せて、「わたしにひざまずけば、これをお前にあげよう」と言うと、主イエスは「『ただ神にのみ仕えよ』と聖書はいっている」と申命記6章13節の聖書のみことばをもってサタンの誘惑を拒否した。「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(ヨハネの手紙一2:16)

神の御子であるイエスにも誘惑はやってくる。悪魔はどんなに人のところにもやって来て、誘惑をする。だから主イエスは「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」と、常にこの世の誘惑に警戒すること、そして祈りと霊の満たしとみことばによって自分の心を守ることを教えられた。

2月14日(日)説教要約マタイによる福音書14章22~36節「奇跡を行うキリスト」

本日の聖書本文の一つ前で、主イエスは5つのパンと2匹の魚で成人男子だけで5000人が満腹になる奇跡を行われた。しかし、弟子たちがパンの奇跡とそれに伴う人々の反応で有頂天になってしまわない為に、強制的に船に乗り込ませ、向こう岸へ行かせた。舟は既に陸から離れており、逆風が吹いていたために、彼らは波に悩まされていた。

主イエスは夜明け頃、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは波と風に悩まされ、恐怖も抱いていたので、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、主イエスはすぐに彼らに声をかけて、「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」と言われた。するとペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言ってしまった。

主イエスが、「来なさい」と言われたのでペトロは舟から降り、水の上を歩いてイエスの所へ行った。しかし強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので「主よ、助けてください」と叫んだ。主イエスはすぐに手を伸ばし、ペトロをつかまえて、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われた。二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

ペトロは主イエスの言葉に従って、今まで経験したことのない体験をした。しかし、目の前の出来事を見た瞬間怖くなり水に沈みかけた。そのような失敗を通してそれが教訓になり、弟子たちの信仰が深まり、彼らの信仰が成長していく。主イエスと共に舟に乗り込んだ時のように、キリストを私の中に迎え入れた時、平安が訪れる。試練を通して神は多くのことを教えてくださる。イエス・キリストを知ることが出来たのは何と素晴らしいことであろうか。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われたイエスの言葉を忘れないようにしよう。

33節を見ると、弟子たちは、イエスの水上歩行、ペトロの救出劇、嵐の静まりを通し、イエスを「拝んで」、「本当に、あなたは神の子です」と言った。この後、キリストを乗せた舟は向こう岸に到達する。彼らは今回の体験を通して、キリスト観が進歩した。イエスのすばらしさをさらに知る者となった。私たちもまた、イエスを知る歩みの中に置かれている。

2月7日(日)説教要約マタイによる福音書15章21~31節「いやすキリスト」

 主イエスはガリラヤからティルス、シドンの地方へ行かれた。そこは地中海に面したフェニキアの町(現在のレバノン)で、異邦人が多く住んでいる所である。その時、カナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んだ。22節の「出て来て」というのは、異教の精神的、文化的、宗教的世界から出てきたという事。ユダヤ人とカナン人はお互いに反目しあっていた。しかしそのカナンの女が娘を思う一心から主イエスに救いを求めているのである。「主よ、ダビデの子よ」と叫んだのは、彼女の実存をかけた心の底からの叫びであり、メシアの救いを求める異邦人の心の底からの求めなのである。

カナンの女の求めに対して、主イエスは3度も拒否されていたが、2度目の拒否の理由はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていないというものであった。主イエスはまず、イスラエルの救いのために働く計画があった。しかし、イスラエルに注がれた恵みは、イエスを信じる異邦人にも及んでいくのである。主イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」小犬である事をわきまえつつ「食卓から落ちるパン屑」はいただくことが出来るという謙遜と信仰を告白している。つまり、この異邦人の女性は、ほんの少し、パンくずほどのあわれみを下されば、主イエスから力をいただくことができるのだという信仰を表明したのである。そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。彼女のねばり強さは神を信じる信仰に基づいたものであって、事態をより良い方向へと変えることのできたのである。主イエスは彼女の信仰を称賛し、彼女に限りない愛を示された。

そしてガリラヤに行かれて、山に登って座っておられると大勢の群衆が来たので、さまざまな病の人を癒された。彼らはイエスのわざを見て驚き、イスラエルの神を賛美したとある。つまり、癒された者の多くが異邦人であることが分かる。ここでも「食卓から落ちるパン屑」であるメシアの救いのめぐみが異邦人にも与えられていたことが分かる。

1月31日(日)説教要約マタイによる福音書5章17~20節「教えるキリスト」

 5章で主イエスは山上の説教を教えられた。それは律法学者やファリサイ派たちの教えとは違い、神の国について、神の義についての権威ある、新しい教えであった。しかしだからといって、主イエスが来られたのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。つまり、誰一人全うできなかった律法を成就してくださったのが主イエスなのである。「律法と預言者」とは旧約聖書全体を意味する。即ち「イエスは旧約の完成者である」というのが、マタイ福音書を貫くイエス理解である。

 また18節に、すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法(ここでは旧約全体を指す)の文字から一点一画も消え去ることはないと言われる。18節で、主イエスによる救いが成就するまで律法は効力を持つと述べられていたが、19節ではそれを報いのテーマと関連させている。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

20節では「あなたがたの義」と律法学者やファリサイ派の義が対比されて、主イエスの見解が示されている。「律法学者」は律法の解説者であり、教師のこと。「ファリサイ派」は「分離された者」の意で、律法を最も形式的に厳密に守る正統派敬虔主義者たちのこと。あなたがたとは、主イエスの呼びかけに答えて彼に従う者たちのことである。あなたがたの義とは何か。主イエスによって律法と預言者つまり旧約聖書が成就することでもたらされる神との新しい関係の源であり、主イエスによってもたらされた神の国に入るための条件である。

主イエスが問うのは外面的な実行に先立つ、内面的な姿勢である。外面に現れる行為よりも先に、その行為の源となる心のありようが問われるのである。「義」とは、正しさである。あなたがたの正しさが、律法学者やファリサイ派の人々よりもまさっていなければ、天国には行けないと主イエスは言われる。主イエス・キリストは、邪悪と背教のために失われていた完全な福音を回復され、誤った教えを正し、旧約聖書の預言者によって伝えられた預言を成就された。これからも主イエスの教えに従って信仰者としての道を歩んでいこう。

1月24日(日)説教要約マタイによる福音書4章18~25節「最初の弟子たち」

主イエスが宣教を始められてからまず、アンデレ、シモン・ペトロ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの4人を最初の弟子としてお召しになった。それは福音宣教の使命を果たさせるためである。「わたしについて来なさい」という言葉は、イエス・キリストの招きである。その招きはあらゆる時代の、あらゆる人々に語りかけられる神のめぐみの招きである。マタイは4人が主イエスの招きの言葉に、すぐに一切を捨てて従ったと記している。実はマタイ自身も、マタイ9:9で、主イエスの招きにすぐに応じている。弟子たちへの召命に対して、主イエスの持たれている主権、召命の迫りを感じたのであろう。すぐにすべてを投げ捨てて従ったことこに、召命への応答の模範を見る事が出来る。

4人の弟子のうち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、弟子たちの中でも中心人物となり、主イエスの変貌にも、ゲッセマネの園にも選ばれて同行した。アンデレは5千人を養う奇蹟の時に、重要な役割を果たした。このように、最初の弟子になった使徒には、特別な使命を帯びて派遣された者という意味がある。彼らには特別な才能や力があった訳ではない。ただ神の力によって宣教に命をかける者となった。私たちも、主イエスが今も生きておられる神の子であることを信じることができるならば、このイエスの招きに喜んで従うことができる。このような信仰も献身も、全ては聖霊の導きによるものである。そして何より重要なことは、まず主が招いてくださらなければ何も始まらないということである。マタイ4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。この主イエスの招きの言葉の背後にある、主の権威と愛によって弟子たちは捕らえられた。ドイツのナチスによって殉教した牧師ボンヘッファーは「キリストの生涯は、この地上でまだ終わっていない。キリストはその生涯をキリストに従う者たちの生活の中で、更に生きたもう」と言った。

主イエスは、バプテスマのヨハネと同じく「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣教を始められたが、ヨハネのように荒野に人々を集めるのではなく、人々の中に、自分から入って行かれた。ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆の病気、わずらいをお癒しになさった。私たちもキリストに倣い、隣にいる人の元に行って、キリストの福音を伝えていこう。

1月3日(日)説教要約マタイによる福音書2章13~23節「エジプト避難」

 ヨセフとマリアが幼子イエスとベツレヘムで暮らしていた時、東方の占星術の学者たちがきて、幼子イエスに礼拝し、捧げものをして帰った時、主の天使が夢でヨセフに現れてエジプトに逃げなさいと告げました。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしているからです。ヨセフは、すぐに起きて、夜のうちに幼子イエスとマリアを連れてエジプトに去り、ヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在しました。貧しい彼らには、その直前に黄金、乳香、没薬が与えられています。神のご計画を歩む時、その人は、確かに神の御手の中にいる事をさまざまな事を通して知らされます。ヨセフとマリアもそうでした。見ず知らずの羊飼いたちがやって来て、天使が救い主がお生まれになったと告げたと興奮して聞かされました。ある日突然、位の高そう異邦人の学者たちが現われて、幼子を礼拝し、高価な贈り物をしてくれました。そこに天使のお告げがあったのです。マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていました。マタイによる福音書1章と2章では、主の天使が5回夢で現れます。4回はヨセフに、1回は学者たちに現れて、神様のみこころを示され、神様の御業のために動く者を導かれました。

幼子イエスがエジプトに逃げて生活し、また戻ってきた事を、主の預言の実現だと言っています。ホセア書11章1節のみことばです。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」これは、神様がエジプトで厳しい奴隷生活をしていたイスラエル人を解放して下さったことを指しています。幼かったイスラエルはエジプト脱出後、40年間荒野で生活をしながら、創造主が自分たちの神である事を知り、正しく認識し、整えられて、神の民となっていきました。それと同じように、キリストが登場することで、キリストの民、キリストの弟子がこれから生まれてこようとしているのです。イスラエルがモーセによって奴隷から解放されたように、モーセに勝る指導者、イエス・キリストがイスラエルに出て来て救い主となり、人々を罪の奴隷から救うものとなることを、ここでは示しているのです。幼子イエスが隠れて暮らした洞窟の上に建てられている教会がエジプトにあります。聖セルジウス教会で、エジプトで最古のコプト教会の一つで、外に出るとピラミッドが見えるそうです。神の独り子がこの世に生まれてくださったのに、人々の不信仰によって、神の子はエジプトに追われていきました。しかしそれは、私たちがその罪から解放されて、救われるためだったのです。

12月6日(日)説教要約マタイによる福音書13章53~58節「受け入れられない主」

 本日からアドベント第二週に入ります。今週のキャンドルは天使のキャンドルです。天使は、今お生まれになったキリストが私たちに「平和」をもたらされた事を告げたことから、「平和のキャンドル」とも言われています。今週は、平和のために、主にあって、私たちの出来る事は何かを思いながら、祈りのうちにアドベント第二週を過ごしましょう。
 主イエスはガリラヤのカファルナウムを、その活動の拠点とされました。そこで、主イエスは「天の御国」についての七つのたとえ――種蒔き、毒麦、からし種、パン種、隠された宝、良い真珠、地引き網のたとえを語られ、その教えについては、弟子たちだけに語られるようになっていました。それぞれのたとえを通して、天の御国に関する様々な面を教えてくださっているのです。それから主イエスはカファルナウムを去り、故郷のナザレへと帰られました。この時、主イエスの噂は故郷のナザレにも伝わっていたようです。主イエスが故郷のナザレに帰ったある安息日にも、その日のトーラー(創世記から申命記)を主イエスが朗読され、説教をされました。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていたとあります。イエスを幼い時から知っていた人びとは、主イエスの語られるその神的な知恵にも、超自然的な力にもただただ驚くばかりでした。彼らは、人間イエスを知っていましたが、それから一歩進んで、信仰によって主イエスを知る、ということまではできず、人々はイエスにつまずいたのでした。主イエスが郷里ナザレで受け入れられなかったことは、ユグヤ民族が彼をメシアとして認めなかったことの象徴的出来事と言えます。ヨハネは福音書でそれをこう書き残しています。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(1:11-12)」
クリスマスまでのアドベントの間は、この一年間の罪を悔い改めて、心の備えをする期間です。共に、御言葉に聞き、自分自身が主イエスを確かにわが主として信じているだろうか。また、主イエス・キリストの側に私は立っているかどうか、点検しつつ、軌道修正をしながら、この一週間も祈りのうちに過ごしていきたいと思います。

11月22日(日)説教要約 マタイによる福音書25章31~46節「最も小さい者」

 本日は収穫感謝合同礼拝として、教会学校の生徒たちと一緒に、秋の収穫の時に、神様が天地万物をお創り下さったことへの感謝と共に、その中で、たくさんの食べ物を実らせてくださって、与えて下さった恵みに感謝して、一緒に神様に礼拝をささげます。教会で収穫感謝の礼拝を捧げるようになったことの一つは、信教の自由を求めてアメリカに渡ったピューリタン(清教徒)を、ネイティブアメリカンが助けた事で収穫が与えられ、その事を感謝して礼拝し、その後、そのネイティブアメリカンを招いてお祝いしました。1864年、アメリカではこの出来事を記念して11月第4木曜日を祝日に定めました。教会では11月第3日曜日、または第4日曜日を収穫感謝の日として、野菜や果物を教会に持って集り、祭壇にささげて礼拝を守ります。
 さて、今日の聖書のお話しは、最後の審判のお話しです。イエス様はお弟子さんたちと一緒にいる時に、たくさんの事を教えてくださいました。ある人々は、ただ、信仰によって、困っている人々を助けたのですが、それは、実はイエス様にしてくれた事と同じなのですよ、と言っておられるのです。「最も小さい者」とは、貧しい人々、さまざまな困難の中にある人、社会的に弱い立場にある人たちのことです。しかも、信仰のゆえに財産を奪われたり、牢屋に入れられたりした人のことをさしています。ただし、このように人を助ける事が、神様の祝福の条件ではありません。それをしないと祝福されない、というのではなく、知らずに人に親切にして助けてあげた事、それを神様は見ていてくださっていて、祝福してくださるのだ、と言っておられるのです。なぜなら、良い心から良い行動が出るし、良い心から良い言葉が出るからです。それを聖書では、「信仰の実」と言っています。
 今日は収穫感謝礼拝と共に、礼拝後すぐに児童祝福式があります。こどもはこの世にあっては、守られるべき、弱い存在です。つまり、「最も小さい者」の一人です。その子どもをイエス様はとても大切にされました。マルコによる福音書10章13~16節。この事に倣い、本日、礼拝後共に子どもたちの祝福をいたしましょう。

11月15日(日)説教要約 マタイによる福音書5章38~48節「救いの約束」

本日の聖書本文は、5章から7章に書き記されている山上の説教の一部分です。
1. 38~39節で主イエスは、犯罪の報復に対する新しい理解を教えられました。それは、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい、という事です。悪人からの個人的な暴力や、攻撃があったとしても、それについて復讐しないようにと言われました。しかし、ヨハネによる福音書18章22~23節を見ると、主イエスは、公的、法的な社会正義がかかっている事に対しては、抗議し、立証することを禁じてはいません。あくまでも、悪に悪で報いる、悪の連鎖反応を禁止しているのであって、悪によって正義が侵されている事を禁止しているのでは決してない事を正しく理解しなければなりません。
2.40~42節。ローマ人は公用のためにユダヤ人たちが私有財産として持っている馬や馬車を徴発―強制的に取り立てること―する権利を持っていました。そして持ち主は徴発されたものと共に1ミリオン行く義務があったのです。このように、強制徴収と強制労働をする権利がローマ人にはありました。しかし強要された1マイルではなく、二マイルを同行することによって、むしろ愛において報復を断ち切り、みずから進んで相手を助ける力強い精神を持つことができます。
3.43節以下。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」これは主イエス・キリストの命令です。その主イエスのみことばに従う時、祈る相手を憎むことが出来なくなる時があります。それは、祈る者の心を主が捕らえて下さり、祈りが祈る者に変化をもたらすからです。なぜなら、神様が祈る者を聖霊で満たして下さり、変えて下さるからです。祈りは、祈る者をキリストに似た者に変えることができるのです。すべての人を積極的に愛する生き方を主イエスは教えてくださいました。ここに現れている神様は、どこまでも愛の神でした。その愛には差別はありません。この箇所の結論は、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい、ということです。そしてこの完全は愛に基づいてすべての人と接することを主は望んでおられるのです。

11月8日(日)説教要約 マタイによる福音書3章7~12節「神の民の選び」

 主イエスの宣教が始まる前に、イザヤが預言した通りに、『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』と荒れ野で叫ぶ者が現れました。洗礼者ヨハネです。メシアの到来近い時に、ユダヤ人の心に「主の道」を備えるべきこと、すなわち「悔い改め」に導いていました。その結果、多くの人々が、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに洗礼を受けに来て罪を告白し、悔い改めて、洗礼を受けたのです。それを知ったファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢来ましたが、彼らに対して、ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」と厳しいことばを発しています。また、全能の創造者である神は、全くアブラハムと血のつながりのない者たちを新しく起こして、真の「アブラハムの子孫」とすることがおできになると警告しています。真のアブラハムの子孫とは、神様の前にへりくだって、悔い改める者のこと、真の神の民ことです。しかし選民意識の強くなっていたユダヤ人にはできないことでした。
 確かに、裁きの日には、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれ」ます。しかし、キリストは、どんなに悪いことをしていても、その人が悔い改めて悪から立ち返ろうとするなら、あわれみを豊かに施してくださるお方です。そしてまさにこの救いのために、キリストが来られたのです。さばきのためではありません。またヨハネは、メシアの先駆者として今自分がここにいるのだと説明しています。そしてその方は、わたしよりも優れておられ、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになると告げました。
 バプテスマのヨハネは最後に12節で最後の大審判の場面をたとえて、警告を与え、人々に悔い改めを迫りました。それはとりもなおさず、集められた人々を神の民とするためでした。

11月1日(日)説教要約 ヨハネの黙示録21章1~4節「新しい天と地」

本日の聖書箇所には3つの事柄が記されています。第一に、新しい天と新しい地が現れます。第二に、「共に」というキーワードが出てきます。神が共にいるため。第三は、「涙をことごとくぬぐい取ってくださる」この世では悲しい事苦しい事があっても、神様はその人の目から涙をことごとくぬぐい取って下さるという約束です。
第一番目。1節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」ここで使われている「新しい」は(カイノス)というギリシャ語です。これは、質的に新しい「新鮮な」という意味で、時間が経っても変わらない、そういう新しさなのです。つまり、「新しい天と新しい地」は、全く新しい存在のものを表しているのです。つまり、これは「今の世」に対する「来るべき世」なのです。2節「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」全てが新しくなるから、都エルサレムも新しくされるのです。神様がお創り下さった元の創造の状態に回復するということです。新しいエルサレムとは、天のエルサレムであり、神の平和が支配する上なるエルサレムが約束されているのです。
第二番目は、「共に」というキーワード。神が共にいるため、でした。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」神様は人間をとても大切にしておられます。そしてここに人間が造られた目的があります。それは、神様が人とともに住み、人がその民となる、ということです。永遠のいのち、というのは、実は、神様との結びつくことで可能となります。神様との交わりが大切なのです。罪ある状態の私たちは、神様と交わる事は出来ません。しかし、イエス・キリストが地上に現われてくださいました。人となられた神様の独り子は、十字架に架けられる事で、私たちの罪が赦される道を開いて下さいました。私たちはただイエス様を信じるだけで良いのです。
第三番目は、神様はその人の目から涙をことごとくぬぐい取って下さる、という約束です。4節「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」死は「最後の敵」だとIコリ15章26節にあります。死はアダムの罪の結果として人間に与えられてしまいました。しかし人間にとって最も恐るべきものである「死」が滅ぼされ、新天新地には死は存在しなくなるのです。「最初のものは過ぎ去ったからである」この世のものは過ぎ去っていきます。だから、人間の罪から来た呪いである「死、悲しみ、叫び、苦しみ」それらがすべてなくなり、神様はその人の目から涙をことごとくぬぐい取って下さる、と約束してくださいました。新しい天と地には完全な回復があります。

9月6日(日)説教要約 ヨハネによる福音書8章12~20節「新しい人間」

 主イエスは、仮庵の祭りで行われるギボンの泉からエルサレム神殿の祭壇まで水が運ばれる行事を見て、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と叫ばれ、イエスを信じた者には聖霊が注がれて、その霊的な渇きが癒される事を語りました。
 次に姦淫の現場で捕らえられた女には罪の許しが宣言され、罪許された後からは、罪を犯さない生活をするようにと言われ、光の中を歩むようにと言われました。そして、婦人の庭の献金箱の近くで照らされるライト、エルサレム中を照らすライトのある場所で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と話され、主イエスに従う者には命の光が与えられると話されました。そして、「わたしはある」つまりイエスが神の子である事、救い主キリストであることをはっきりと語られました。その言葉に、ファリサイ派の人々は異議申し立てました。当時のユダヤ人にとって、肉に従って、その当時の一般常識をもって聖書に書かれていることを判断すると、目の前にいる青年イエスはとてもメシアとは言えないのだ、と判断したのです。しかし、ファリサイ派の人々の攻撃に対しても、主イエスはだれをも裁かないと言われます。そしてもし裁いたとしても、その裁きは真実であると言われました。
 ヨハネ1章9節以下では、まことの光であるイエス・キリストが来られ、その名を信じた者には神の子となる力を与えてくださると言います。私たちの力ではできないことも、イエスを信じた時、聖霊なる神様が、私たちを導いてキリストに従う事が出来るようにして下さるのです。そのような憐れみに満ちた主イエスを信じて、生きた水をいただいて聖霊に満たされ、命の光である主に従って、新しく霊に従う人として、これからも歩んで行きたいと思います。

8月30日(日)説教要約 ヨハネによる福音書8章1~11節「霊に従う生き方」

 主イエスが、神殿の中で座って教えておられた時、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と聞きました。主イエスは、彼らの魂の状態と、ユダヤの律法にもローマの法律にも抵触させようとするその魂胆を見抜いておられましたので、彼らの質問には答えずに、かがみ込み、指で地面に何か書き始められました。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」主イエスは決して律法を無効にはされません。律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために来られました(マタイ5:17)。
 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられました。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残ったのです。彼らはみな熱心なユダヤ教徒でした。律法を覚えていて、守ってきました。その律法によって、実は心の中にある思い、霊的なものを知った時、実は自分がいかに罪深いものであるのかを知るようになるのです。(ローマ書7章12~13節)
 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」この世にあって、唯一人を罪に定めて裁くことができるお方である主イエス・キリストが、わたしもあなたを罪に定めないと言われたのです。ここに神の恵みが示されました。しかしそれで終わりではありません。罪許されて罪から離れた女性は、これからは神の恵みの中で生きていく時、罪から遠ざかり、聖霊の導きにしたがって新しい人生を歩み始めるのです。その歩みは、いつも共にいて下さる主と共に歩む道であり、聖霊の導きのうちに生きる、霊に従う生き方なのです。そしてそれこそが、主にある勝利の道なのです。

8月16日(日)説教要約 ヨハネによる福音書7章1~17節「信仰による勝利」

 主イエスは、エルサレムで安息日に病気を癒されたため、律法を破る者だと、ユダヤ人指導者たちから命を狙われるようになっていました。ときに、仮庵祭が近づいて、ユダヤ教徒の成人男子はエルサレムに上ることになっていました。イエスの兄弟たちがイエスに、ユダヤに行って公に行動するようにと勧めましたが、実は兄弟たちはこの時はまだイエスをキリストとは信じていませんでした。主イエスは、十字架につけられるために父なる神様によって定められた時(カイロス)がまだ来ていないと、エルサレムに上京する巡礼の一行には参加されませんでした。しかしその後、人目を避けて上って行かれましたが、エルサレムでは、ユダヤ人がイエスを捕まえようと探し回っていました。祭りも半ばになった頃、イエスは神殿の境内に上って教え始められ、ユダヤ人指導者たちとの論争を通して、ご自分の権威の根源はご自分を遣わされた父なる神にあるという真理を伝えました。さらに、ご自分の教えが神様から出たものであると認めることができるのは、真剣に神のみこころを行おうと願うものだけである、と言われました。
 主イエスの兄弟たちも、ユダヤ人指導者たちも、信仰熱心で、メシアが来られる事を熱望していましたが、肉の目線でしか物事を捕らえられず、目の前に神の子が現れてもそれに気づかず、悪魔の惑わしにすっかり取り込まれてしまっていたのです。しかしそれは、彼らだけの事ではないかもしれません。現代も、神様を愛する、主に従うと言いながら、実は主の御心に反することをしている事が私たちにはないでしょうか。ユダヤ人指導者たちは結局キリストを十字架に架けてしまいます。しかし、主イエスの兄弟たちは、主の十字架の死と復活によって目が開かれ、イエスが救い主キリストであることを知り、どんな迫害の中にあっても信じて、人々を救いの道に導く者となりました。
 ヨハネの手紙一5章1~5節には、イエスをキリストと信じる者は神から生まれたもので、その信仰により世に打ち勝つのだとあります。8月は日本基督教団では平和を考える月で、昨日は敗戦記念日でした。平和を守ることは、時にとても大変で困難です。しかしこの世の力がどんなに強くても、神から生まれた者はみな、世に打ち勝つのだと聖書は語ります。それはキリストがすでに世に勝たれた方であるからです。ですから私たちも、イエスは救い主キリストであると告白し、信仰を固く守って、キリストの力を受けて、信仰による本当の勝利をつかみ、それぞれの置かれたところで力強く平和を作り出す者として歩みましょう。
 

8月9日(日)説教要約 箴言9章1~10節「知恵の勧め」

 旧約聖書の知恵文学は、ヨブ記、詩編、箴言、コヘレトの書の4つを言います。その中の箴言の中心聖句は、1章7節の「主を恐れるこ とは知恵の始め」で、箴言全体を貫く標語です。箴言はダビデの子ソロモンが書いたものです。
 本日の聖書本文を見ていくと、知恵が神殿を建て、最良の食物とぶどう酒を用意して人々を招きます。そして、そのはしためは、高い所で呼びかけたとあります。イザヤ書40書9節「高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。」高い所から叫べば、町の全ての人に伝える事が出来ます。そのように、神様のご計画、福音を伝えるようにとはしためたちは遣わされました。このように、知恵ははしためを遣わして、人々を宴会に招きました。聖書では、神の国、天国への招きの比喩に、このように食事、宴会への招きを用いることがよくあります。
 「浅はかな者」「意志の弱い者」は、わたし(知恵)のところに来て食事をしなさい。その食事をすれば、浅はかさ、意志の弱さを捨て、神の祝福による命を得て、人生における確かな分別の道を進むことができるだろう、と伝えるのです。また不遜な者、自己中心的で傲慢な人物に対して、知恵による諭しをしても侮られるだけであり、神に逆らう者を戒めても、自分が傷を負うだけだから、そういった人物には関わることのないようにと教えています。しかし、知恵があり、神に従う者は、教えを受ければさらに知恵と義を獲得するでしょう。
 10節「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」箴言1章7節が、ここでもう一度、強調されています。そして同じように、聖なる方を知ることは、その信仰生活のもとになるのです。かつてのイスラエルの民は、この主を畏れる事を忘れて、知恵を無くしました。また、聖なる方を忘れ、命に至る道がなんであるのかという分別が出来なくなってしまい、その結果、バビロン帝国に滅ぼされ、奴隷として捕まっていき、つらく厳しい捕囚生活をすることになってしまったのでした。だから、イスラエルの若者たちに対して、知恵の書、箴言を伝えたのです。
 また、知恵は人から教えられるものですが、一度身についた知恵は、自分自身のものとなります。しかし、これと同じように、もし不遜であり続けた時、その罪の報いは、自分自身に降りかかるのです。つまり、「罪の報いは死」というユダヤ教の基本的な考え方にあるように、不遜であることの代償として、命を捨てなければならない。人生の半ばで倒れるであろうと警告するのです。これは、バビロン捕囚を経験したイスラエル人の教えではありますが、今にも続く人間の定めだと思います。
 箴言は、私たちに知恵をもって生きる事を勧めています。「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」私たちは、今も生きて働かれる主イエス・キリストを信じています。御言葉を通して、主を知るようになりました。キリストに出会いました。そして、これからも、畏敬の念をもって主に仕え、みことばに従って、知恵をもって生きる者となりたいと思います。

8月2日(日)説教要約 ローマの信徒への手紙14章13~23節「神の国・平和」

 日本基督教団では8月第一主日は平和を祈る礼拝として守ります。第二次世界大戦の時、政府によって宗教団体法が制定され、日本にある全てのプロテスタント教会が合わされて日本基督教団が成立しました。教会の合同が、不思議な神の摂理の中で、国策として実現しました。しかし政府からの要請を受けて、多くの教会は戦争の協力をしました。戦争が終わって組織的に脱退した教団もありましたが、日本基督教団は存続しました。1966年10月第14回日本基督教団の総会において、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」いわゆる「戦責告白」が作られました。戦後20年経って「教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。」と宣言したのでした。そして敗戦の月である8月を、日本基督教団の平和を考える月とし、第一日曜日を平和聖日礼拝と定めました。
 ローマの信徒への手紙14では、キリスト者としての生き方が説明され、特に主にある兄弟姉妹をつまずかせない事が大切だと言っています。当時のローマ教会で、市場で売られている肉を食べるか食べないかで問題が生じていました。パウロの言う「信仰の弱い人」とは、律法にある通りに、汚れた動物を食べない人、また、偶像に供えられた肉を食べない人です。彼らはこのような事を気にしてつまずきやすい人であるという点で「信仰の弱い人」でした。一方、そのようなことは気にしないで何でも食べる人の事を「信仰の強い人」と言っています。パウロ自身は、食べ物はそれ自体で汚れているものは何一つなく、ただ汚れていると思う人にだけ汚れていると、主イエスによって確信していました。主イエスは、マタイ15章11節で「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」と言われている通りです。パウロは、キリストにある教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないと言っているのです。この原則はきわめて重要であって、教会における平和と一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって守られるものなのだと言っているのです。なぜなら、神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びだからです。そして、信仰者として固い確信、信仰をもって生きるべきだと語ります。
戦時中の教会は、信仰の確信に立つことなく、国策に従いました。しかし、神様はその戦争を敗戦と言う形で終わらせられました。その時、教会は本心に立ち返って、神の元に帰る事が出来たのです。そして、その罪を悔い改めたのです。神様はそのような悔い改めと、砕かれた心を喜ばれ、許して下さいます。私たちはそのような立場に立って、明日の教会を目指して、作り上げなければなりません。そのことを確認するために、平和聖日礼拝が守られるのです。

7月19日(日)説教要約 ヨハネによる福音書5章19~30節「復活の希望」

 キリスト教の神は唯一の神でありますが、「父」「子」「聖霊」の三つが一つの神であるとする三位一体の教理が大きな特徴です。本日の聖書本文では、主イエスがその中の「父」と「子」の関係について語られました。
 ①19節 子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。②19節 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。③20節 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。④21節 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。⑤22節 父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
 父なる神が御子を愛しておられ、御子は父に完全に服従しておられます。御子は父なる神の近くにおられたので、父なる神のみこころを完全に知って、その御業を完全に成し遂げる事が出来るのです。そして御子は父なる神の愛のうちにおられるので、その活動のすべてにおいて、父なる神の愛を現わしておられます。その御子に、父なる神は、命を与えることも、また、裁きも、一切を任せておられるのです。
 24節で、主イエスは「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」と言われました。この移っているという言葉は、ギリシア語の完了形で、「すでに移ってしまっている」ということになります。ですから、主イエス・キリストのことばを聞いて、父なる神を信じる者は、神様がその人を死から命へとよみがえらせて、最後の裁きから救い出して下さるので、その人は、すでに死から命へと移ってしまっているのだと主イエスは話されました。そしてこの約束は、信仰を持つものへの祝福です。
 また、25節の「死んだ者」とは、「霊的に死んだ人」すなわち「罪人」で、主イエスのことばを聞いて信じる者は、ただちに、霊的に死んでいる罪の状態から救い出されて、永遠のいのちを与えられて、真に生きる者とされるのだと言われました。なぜなら、主イエスが、父なる神から、御子として、永遠のいのちを与えるようにとその権威を授けられているのは、それを信じる人々に命を分かち与えるためだからです。
 そして、人は誰でも終わりの日が来て、神の裁きの御座に立つようになります。その時に、イエスを信じる者には、すでに永遠の命が約束されているのだと約束してくださっています。
日本キリスト教団神戸平安教会
〒657-0832
神戸市灘区岸地通5-2-17
TEL.078-861-3668
FAX.078-806-2108
0
4
1
7
8
1
TOPへ戻る