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牧師の部屋 

8月9日(日)説教要約 箴言9章1~10節「知恵の勧め」

 旧約聖書の知恵文学は、ヨブ記、詩編、箴言、コヘレトの書の4つを言います。その中の箴言の中心聖句は、1章7節の「主を恐れるこ とは知恵の始め」で、箴言全体を貫く標語です。箴言はダビデの子ソロモンが書いたものです。
 本日の聖書本文を見ていくと、知恵が神殿を建て、最良の食物とぶどう酒を用意して人々を招きます。そして、そのはしためは、高い所で呼びかけたとあります。イザヤ書40書9節「高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。」高い所から叫べば、町の全ての人に伝える事が出来ます。そのように、神様のご計画、福音を伝えるようにとはしためたちは遣わされました。このように、知恵ははしためを遣わして、人々を宴会に招きました。聖書では、神の国、天国への招きの比喩に、このように食事、宴会への招きを用いることがよくあります。
 「浅はかな者」「意志の弱い者」は、わたし(知恵)のところに来て食事をしなさい。その食事をすれば、浅はかさ、意志の弱さを捨て、神の祝福による命を得て、人生における確かな分別の道を進むことができるだろう、と伝えるのです。また不遜な者、自己中心的で傲慢な人物に対して、知恵による諭しをしても侮られるだけであり、神に逆らう者を戒めても、自分が傷を負うだけだから、そういった人物には関わることのないようにと教えています。しかし、知恵があり、神に従う者は、教えを受ければさらに知恵と義を獲得するでしょう。
 10節「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」箴言1章7節が、ここでもう一度、強調されています。そして同じように、聖なる方を知ることは、その信仰生活のもとになるのです。かつてのイスラエルの民は、この主を畏れる事を忘れて、知恵を無くしました。また、聖なる方を忘れ、命に至る道がなんであるのかという分別が出来なくなってしまい、その結果、バビロン帝国に滅ぼされ、奴隷として捕まっていき、つらく厳しい捕囚生活をすることになってしまったのでした。だから、イスラエルの若者たちに対して、知恵の書、箴言を伝えたのです。
 また、知恵は人から教えられるものですが、一度身についた知恵は、自分自身のものとなります。しかし、これと同じように、もし不遜であり続けた時、その罪の報いは、自分自身に降りかかるのです。つまり、「罪の報いは死」というユダヤ教の基本的な考え方にあるように、不遜であることの代償として、命を捨てなければならない。人生の半ばで倒れるであろうと警告するのです。これは、バビロン捕囚を経験したイスラエル人の教えではありますが、今にも続く人間の定めだと思います。
 箴言は、私たちに知恵をもって生きる事を勧めています。「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」私たちは、今も生きて働かれる主イエス・キリストを信じています。御言葉を通して、主を知るようになりました。キリストに出会いました。そして、これからも、畏敬の念をもって主に仕え、みことばに従って、知恵をもって生きる者となりたいと思います。

8月2日(日)説教要約 ローマの信徒への手紙14章13~23節「神の国・平和」

 日本基督教団では8月第一主日は平和を祈る礼拝として守ります。第二次世界大戦の時、政府によって宗教団体法が制定され、日本にある全てのプロテスタント教会が合わされて日本基督教団が成立しました。教会の合同が、不思議な神の摂理の中で、国策として実現しました。しかし政府からの要請を受けて、多くの教会は戦争の協力をしました。戦争が終わって組織的に脱退した教団もありましたが、日本基督教団は存続しました。1966年10月第14回日本基督教団の総会において、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」いわゆる「戦責告白」が作られました。戦後20年経って「教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。」と宣言したのでした。そして敗戦の月である8月を、日本基督教団の平和を考える月とし、第一日曜日を平和聖日礼拝と定めました。
 ローマの信徒への手紙14では、キリスト者としての生き方が説明され、特に主にある兄弟姉妹をつまずかせない事が大切だと言っています。当時のローマ教会で、市場で売られている肉を食べるか食べないかで問題が生じていました。パウロの言う「信仰の弱い人」とは、律法にある通りに、汚れた動物を食べない人、また、偶像に供えられた肉を食べない人です。彼らはこのような事を気にしてつまずきやすい人であるという点で「信仰の弱い人」でした。一方、そのようなことは気にしないで何でも食べる人の事を「信仰の強い人」と言っています。パウロ自身は、食べ物はそれ自体で汚れているものは何一つなく、ただ汚れていると思う人にだけ汚れていると、主イエスによって確信していました。主イエスは、マタイ15章11節で「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」と言われている通りです。パウロは、キリストにある教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないと言っているのです。この原則はきわめて重要であって、教会における平和と一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって守られるものなのだと言っているのです。なぜなら、神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びだからです。そして、信仰者として固い確信、信仰をもって生きるべきだと語ります。
戦時中の教会は、信仰の確信に立つことなく、国策に従いました。しかし、神様はその戦争を敗戦と言う形で終わらせられました。その時、教会は本心に立ち返って、神の元に帰る事が出来たのです。そして、その罪を悔い改めたのです。神様はそのような悔い改めと、砕かれた心を喜ばれ、許して下さいます。私たちはそのような立場に立って、明日の教会を目指して、作り上げなければなりません。そのことを確認するために、平和聖日礼拝が守られるのです。

7月19日(日)説教要約 ヨハネによる福音書5章19~30節「復活の希望」

 キリスト教の神は唯一の神でありますが、「父」「子」「聖霊」の三つが一つの神であるとする三位一体の教理が大きな特徴です。本日の聖書本文では、主イエスがその中の「父」と「子」の関係について語られました。
 ①19節 子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。②19節 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。③20節 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。④21節 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。⑤22節 父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
 父なる神が御子を愛しておられ、御子は父に完全に服従しておられます。御子は父なる神の近くにおられたので、父なる神のみこころを完全に知って、その御業を完全に成し遂げる事が出来るのです。そして御子は父なる神の愛のうちにおられるので、その活動のすべてにおいて、父なる神の愛を現わしておられます。その御子に、父なる神は、命を与えることも、また、裁きも、一切を任せておられるのです。
 24節で、主イエスは「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」と言われました。この移っているという言葉は、ギリシア語の完了形で、「すでに移ってしまっている」ということになります。ですから、主イエス・キリストのことばを聞いて、父なる神を信じる者は、神様がその人を死から命へとよみがえらせて、最後の裁きから救い出して下さるので、その人は、すでに死から命へと移ってしまっているのだと主イエスは話されました。そしてこの約束は、信仰を持つものへの祝福です。
 また、25節の「死んだ者」とは、「霊的に死んだ人」すなわち「罪人」で、主イエスのことばを聞いて信じる者は、ただちに、霊的に死んでいる罪の状態から救い出されて、永遠のいのちを与えられて、真に生きる者とされるのだと言われました。なぜなら、主イエスが、父なる神から、御子として、永遠のいのちを与えるようにとその権威を授けられているのは、それを信じる人々に命を分かち与えるためだからです。
 そして、人は誰でも終わりの日が来て、神の裁きの御座に立つようになります。その時に、イエスを信じる者には、すでに永遠の命が約束されているのだと約束してくださっています。
日本キリスト教団神戸平安教会
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