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牧師の部屋 

11月15日(日)説教要約 マタイによる福音書5章38~48節「救いの約束」

本日の聖書本文は、5章から7章に書き記されている山上の説教の一部分です。
1. 38~39節で主イエスは、犯罪の報復に対する新しい理解を教えられました。それは、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい、という事です。悪人からの個人的な暴力や、攻撃があったとしても、それについて復讐しないようにと言われました。しかし、ヨハネによる福音書18章22~23節を見ると、主イエスは、公的、法的な社会正義がかかっている事に対しては、抗議し、立証することを禁じてはいません。あくまでも、悪に悪で報いる、悪の連鎖反応を禁止しているのであって、悪によって正義が侵されている事を禁止しているのでは決してない事を正しく理解しなければなりません。
2.40~42節。ローマ人は公用のためにユダヤ人たちが私有財産として持っている馬や馬車を徴発―強制的に取り立てること―する権利を持っていました。そして持ち主は徴発されたものと共に1ミリオン行く義務があったのです。このように、強制徴収と強制労働をする権利がローマ人にはありました。しかし強要された1マイルではなく、二マイルを同行することによって、むしろ愛において報復を断ち切り、みずから進んで相手を助ける力強い精神を持つことができます。
3.43節以下。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」これは主イエス・キリストの命令です。その主イエスのみことばに従う時、祈る相手を憎むことが出来なくなる時があります。それは、祈る者の心を主が捕らえて下さり、祈りが祈る者に変化をもたらすからです。なぜなら、神様が祈る者を聖霊で満たして下さり、変えて下さるからです。祈りは、祈る者をキリストに似た者に変えることができるのです。すべての人を積極的に愛する生き方を主イエスは教えてくださいました。ここに現れている神様は、どこまでも愛の神でした。その愛には差別はありません。この箇所の結論は、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい、ということです。そしてこの完全は愛に基づいてすべての人と接することを主は望んでおられるのです。

11月8日(日)説教要約 マタイによる福音書3章7~12節「神の民の選び」

 主イエスの宣教が始まる前に、イザヤが預言した通りに、『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』と荒れ野で叫ぶ者が現れました。洗礼者ヨハネです。メシアの到来近い時に、ユダヤ人の心に「主の道」を備えるべきこと、すなわち「悔い改め」に導いていました。その結果、多くの人々が、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに洗礼を受けに来て罪を告白し、悔い改めて、洗礼を受けたのです。それを知ったファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢来ましたが、彼らに対して、ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」と厳しいことばを発しています。また、全能の創造者である神は、全くアブラハムと血のつながりのない者たちを新しく起こして、真の「アブラハムの子孫」とすることがおできになると警告しています。真のアブラハムの子孫とは、神様の前にへりくだって、悔い改める者のこと、真の神の民ことです。しかし選民意識の強くなっていたユダヤ人にはできないことでした。
 確かに、裁きの日には、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれ」ます。しかし、キリストは、どんなに悪いことをしていても、その人が悔い改めて悪から立ち返ろうとするなら、あわれみを豊かに施してくださるお方です。そしてまさにこの救いのために、キリストが来られたのです。さばきのためではありません。またヨハネは、メシアの先駆者として今自分がここにいるのだと説明しています。そしてその方は、わたしよりも優れておられ、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになると告げました。
 バプテスマのヨハネは最後に12節で最後の大審判の場面をたとえて、警告を与え、人々に悔い改めを迫りました。それはとりもなおさず、集められた人々を神の民とするためでした。

11月1日(日)説教要約 ヨハネの黙示録21章1~4節「新しい天と地」

本日の聖書箇所には3つの事柄が記されています。第一に、新しい天と新しい地が現れます。第二に、「共に」というキーワードが出てきます。神が共にいるため。第三は、「涙をことごとくぬぐい取ってくださる」この世では悲しい事苦しい事があっても、神様はその人の目から涙をことごとくぬぐい取って下さるという約束です。
第一番目。1節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」ここで使われている「新しい」は(カイノス)というギリシャ語です。これは、質的に新しい「新鮮な」という意味で、時間が経っても変わらない、そういう新しさなのです。つまり、「新しい天と新しい地」は、全く新しい存在のものを表しているのです。つまり、これは「今の世」に対する「来るべき世」なのです。2節「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」全てが新しくなるから、都エルサレムも新しくされるのです。神様がお創り下さった元の創造の状態に回復するということです。新しいエルサレムとは、天のエルサレムであり、神の平和が支配する上なるエルサレムが約束されているのです。
第二番目は、「共に」というキーワード。神が共にいるため、でした。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」神様は人間をとても大切にしておられます。そしてここに人間が造られた目的があります。それは、神様が人とともに住み、人がその民となる、ということです。永遠のいのち、というのは、実は、神様との結びつくことで可能となります。神様との交わりが大切なのです。罪ある状態の私たちは、神様と交わる事は出来ません。しかし、イエス・キリストが地上に現われてくださいました。人となられた神様の独り子は、十字架に架けられる事で、私たちの罪が赦される道を開いて下さいました。私たちはただイエス様を信じるだけで良いのです。
第三番目は、神様はその人の目から涙をことごとくぬぐい取って下さる、という約束です。4節「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」死は「最後の敵」だとIコリ15章26節にあります。死はアダムの罪の結果として人間に与えられてしまいました。しかし人間にとって最も恐るべきものである「死」が滅ぼされ、新天新地には死は存在しなくなるのです。「最初のものは過ぎ去ったからである」この世のものは過ぎ去っていきます。だから、人間の罪から来た呪いである「死、悲しみ、叫び、苦しみ」それらがすべてなくなり、神様はその人の目から涙をことごとくぬぐい取って下さる、と約束してくださいました。新しい天と地には完全な回復があります。

9月6日(日)説教要約 ヨハネによる福音書8章12~20節「新しい人間」

 主イエスは、仮庵の祭りで行われるギボンの泉からエルサレム神殿の祭壇まで水が運ばれる行事を見て、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と叫ばれ、イエスを信じた者には聖霊が注がれて、その霊的な渇きが癒される事を語りました。
 次に姦淫の現場で捕らえられた女には罪の許しが宣言され、罪許された後からは、罪を犯さない生活をするようにと言われ、光の中を歩むようにと言われました。そして、婦人の庭の献金箱の近くで照らされるライト、エルサレム中を照らすライトのある場所で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と話され、主イエスに従う者には命の光が与えられると話されました。そして、「わたしはある」つまりイエスが神の子である事、救い主キリストであることをはっきりと語られました。その言葉に、ファリサイ派の人々は異議申し立てました。当時のユダヤ人にとって、肉に従って、その当時の一般常識をもって聖書に書かれていることを判断すると、目の前にいる青年イエスはとてもメシアとは言えないのだ、と判断したのです。しかし、ファリサイ派の人々の攻撃に対しても、主イエスはだれをも裁かないと言われます。そしてもし裁いたとしても、その裁きは真実であると言われました。
 ヨハネ1章9節以下では、まことの光であるイエス・キリストが来られ、その名を信じた者には神の子となる力を与えてくださると言います。私たちの力ではできないことも、イエスを信じた時、聖霊なる神様が、私たちを導いてキリストに従う事が出来るようにして下さるのです。そのような憐れみに満ちた主イエスを信じて、生きた水をいただいて聖霊に満たされ、命の光である主に従って、新しく霊に従う人として、これからも歩んで行きたいと思います。

8月30日(日)説教要約 ヨハネによる福音書8章1~11節「霊に従う生き方」

 主イエスが、神殿の中で座って教えておられた時、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と聞きました。主イエスは、彼らの魂の状態と、ユダヤの律法にもローマの法律にも抵触させようとするその魂胆を見抜いておられましたので、彼らの質問には答えずに、かがみ込み、指で地面に何か書き始められました。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」主イエスは決して律法を無効にはされません。律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために来られました(マタイ5:17)。
 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられました。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残ったのです。彼らはみな熱心なユダヤ教徒でした。律法を覚えていて、守ってきました。その律法によって、実は心の中にある思い、霊的なものを知った時、実は自分がいかに罪深いものであるのかを知るようになるのです。(ローマ書7章12~13節)
 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」この世にあって、唯一人を罪に定めて裁くことができるお方である主イエス・キリストが、わたしもあなたを罪に定めないと言われたのです。ここに神の恵みが示されました。しかしそれで終わりではありません。罪許されて罪から離れた女性は、これからは神の恵みの中で生きていく時、罪から遠ざかり、聖霊の導きにしたがって新しい人生を歩み始めるのです。その歩みは、いつも共にいて下さる主と共に歩む道であり、聖霊の導きのうちに生きる、霊に従う生き方なのです。そしてそれこそが、主にある勝利の道なのです。

8月16日(日)説教要約 ヨハネによる福音書7章1~17節「信仰による勝利」

 主イエスは、エルサレムで安息日に病気を癒されたため、律法を破る者だと、ユダヤ人指導者たちから命を狙われるようになっていました。ときに、仮庵祭が近づいて、ユダヤ教徒の成人男子はエルサレムに上ることになっていました。イエスの兄弟たちがイエスに、ユダヤに行って公に行動するようにと勧めましたが、実は兄弟たちはこの時はまだイエスをキリストとは信じていませんでした。主イエスは、十字架につけられるために父なる神様によって定められた時(カイロス)がまだ来ていないと、エルサレムに上京する巡礼の一行には参加されませんでした。しかしその後、人目を避けて上って行かれましたが、エルサレムでは、ユダヤ人がイエスを捕まえようと探し回っていました。祭りも半ばになった頃、イエスは神殿の境内に上って教え始められ、ユダヤ人指導者たちとの論争を通して、ご自分の権威の根源はご自分を遣わされた父なる神にあるという真理を伝えました。さらに、ご自分の教えが神様から出たものであると認めることができるのは、真剣に神のみこころを行おうと願うものだけである、と言われました。
 主イエスの兄弟たちも、ユダヤ人指導者たちも、信仰熱心で、メシアが来られる事を熱望していましたが、肉の目線でしか物事を捕らえられず、目の前に神の子が現れてもそれに気づかず、悪魔の惑わしにすっかり取り込まれてしまっていたのです。しかしそれは、彼らだけの事ではないかもしれません。現代も、神様を愛する、主に従うと言いながら、実は主の御心に反することをしている事が私たちにはないでしょうか。ユダヤ人指導者たちは結局キリストを十字架に架けてしまいます。しかし、主イエスの兄弟たちは、主の十字架の死と復活によって目が開かれ、イエスが救い主キリストであることを知り、どんな迫害の中にあっても信じて、人々を救いの道に導く者となりました。
 ヨハネの手紙一5章1~5節には、イエスをキリストと信じる者は神から生まれたもので、その信仰により世に打ち勝つのだとあります。8月は日本基督教団では平和を考える月で、昨日は敗戦記念日でした。平和を守ることは、時にとても大変で困難です。しかしこの世の力がどんなに強くても、神から生まれた者はみな、世に打ち勝つのだと聖書は語ります。それはキリストがすでに世に勝たれた方であるからです。ですから私たちも、イエスは救い主キリストであると告白し、信仰を固く守って、キリストの力を受けて、信仰による本当の勝利をつかみ、それぞれの置かれたところで力強く平和を作り出す者として歩みましょう。
 

8月9日(日)説教要約 箴言9章1~10節「知恵の勧め」

 旧約聖書の知恵文学は、ヨブ記、詩編、箴言、コヘレトの書の4つを言います。その中の箴言の中心聖句は、1章7節の「主を恐れるこ とは知恵の始め」で、箴言全体を貫く標語です。箴言はダビデの子ソロモンが書いたものです。
 本日の聖書本文を見ていくと、知恵が神殿を建て、最良の食物とぶどう酒を用意して人々を招きます。そして、そのはしためは、高い所で呼びかけたとあります。イザヤ書40書9節「高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。」高い所から叫べば、町の全ての人に伝える事が出来ます。そのように、神様のご計画、福音を伝えるようにとはしためたちは遣わされました。このように、知恵ははしためを遣わして、人々を宴会に招きました。聖書では、神の国、天国への招きの比喩に、このように食事、宴会への招きを用いることがよくあります。
 「浅はかな者」「意志の弱い者」は、わたし(知恵)のところに来て食事をしなさい。その食事をすれば、浅はかさ、意志の弱さを捨て、神の祝福による命を得て、人生における確かな分別の道を進むことができるだろう、と伝えるのです。また不遜な者、自己中心的で傲慢な人物に対して、知恵による諭しをしても侮られるだけであり、神に逆らう者を戒めても、自分が傷を負うだけだから、そういった人物には関わることのないようにと教えています。しかし、知恵があり、神に従う者は、教えを受ければさらに知恵と義を獲得するでしょう。
 10節「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」箴言1章7節が、ここでもう一度、強調されています。そして同じように、聖なる方を知ることは、その信仰生活のもとになるのです。かつてのイスラエルの民は、この主を畏れる事を忘れて、知恵を無くしました。また、聖なる方を忘れ、命に至る道がなんであるのかという分別が出来なくなってしまい、その結果、バビロン帝国に滅ぼされ、奴隷として捕まっていき、つらく厳しい捕囚生活をすることになってしまったのでした。だから、イスラエルの若者たちに対して、知恵の書、箴言を伝えたのです。
 また、知恵は人から教えられるものですが、一度身についた知恵は、自分自身のものとなります。しかし、これと同じように、もし不遜であり続けた時、その罪の報いは、自分自身に降りかかるのです。つまり、「罪の報いは死」というユダヤ教の基本的な考え方にあるように、不遜であることの代償として、命を捨てなければならない。人生の半ばで倒れるであろうと警告するのです。これは、バビロン捕囚を経験したイスラエル人の教えではありますが、今にも続く人間の定めだと思います。
 箴言は、私たちに知恵をもって生きる事を勧めています。「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」私たちは、今も生きて働かれる主イエス・キリストを信じています。御言葉を通して、主を知るようになりました。キリストに出会いました。そして、これからも、畏敬の念をもって主に仕え、みことばに従って、知恵をもって生きる者となりたいと思います。

8月2日(日)説教要約 ローマの信徒への手紙14章13~23節「神の国・平和」

 日本基督教団では8月第一主日は平和を祈る礼拝として守ります。第二次世界大戦の時、政府によって宗教団体法が制定され、日本にある全てのプロテスタント教会が合わされて日本基督教団が成立しました。教会の合同が、不思議な神の摂理の中で、国策として実現しました。しかし政府からの要請を受けて、多くの教会は戦争の協力をしました。戦争が終わって組織的に脱退した教団もありましたが、日本基督教団は存続しました。1966年10月第14回日本基督教団の総会において、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」いわゆる「戦責告白」が作られました。戦後20年経って「教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。」と宣言したのでした。そして敗戦の月である8月を、日本基督教団の平和を考える月とし、第一日曜日を平和聖日礼拝と定めました。
 ローマの信徒への手紙14では、キリスト者としての生き方が説明され、特に主にある兄弟姉妹をつまずかせない事が大切だと言っています。当時のローマ教会で、市場で売られている肉を食べるか食べないかで問題が生じていました。パウロの言う「信仰の弱い人」とは、律法にある通りに、汚れた動物を食べない人、また、偶像に供えられた肉を食べない人です。彼らはこのような事を気にしてつまずきやすい人であるという点で「信仰の弱い人」でした。一方、そのようなことは気にしないで何でも食べる人の事を「信仰の強い人」と言っています。パウロ自身は、食べ物はそれ自体で汚れているものは何一つなく、ただ汚れていると思う人にだけ汚れていると、主イエスによって確信していました。主イエスは、マタイ15章11節で「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」と言われている通りです。パウロは、キリストにある教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないと言っているのです。この原則はきわめて重要であって、教会における平和と一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって守られるものなのだと言っているのです。なぜなら、神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びだからです。そして、信仰者として固い確信、信仰をもって生きるべきだと語ります。
戦時中の教会は、信仰の確信に立つことなく、国策に従いました。しかし、神様はその戦争を敗戦と言う形で終わらせられました。その時、教会は本心に立ち返って、神の元に帰る事が出来たのです。そして、その罪を悔い改めたのです。神様はそのような悔い改めと、砕かれた心を喜ばれ、許して下さいます。私たちはそのような立場に立って、明日の教会を目指して、作り上げなければなりません。そのことを確認するために、平和聖日礼拝が守られるのです。

7月19日(日)説教要約 ヨハネによる福音書5章19~30節「復活の希望」

 キリスト教の神は唯一の神でありますが、「父」「子」「聖霊」の三つが一つの神であるとする三位一体の教理が大きな特徴です。本日の聖書本文では、主イエスがその中の「父」と「子」の関係について語られました。
 ①19節 子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。②19節 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。③20節 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。④21節 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。⑤22節 父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
 父なる神が御子を愛しておられ、御子は父に完全に服従しておられます。御子は父なる神の近くにおられたので、父なる神のみこころを完全に知って、その御業を完全に成し遂げる事が出来るのです。そして御子は父なる神の愛のうちにおられるので、その活動のすべてにおいて、父なる神の愛を現わしておられます。その御子に、父なる神は、命を与えることも、また、裁きも、一切を任せておられるのです。
 24節で、主イエスは「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」と言われました。この移っているという言葉は、ギリシア語の完了形で、「すでに移ってしまっている」ということになります。ですから、主イエス・キリストのことばを聞いて、父なる神を信じる者は、神様がその人を死から命へとよみがえらせて、最後の裁きから救い出して下さるので、その人は、すでに死から命へと移ってしまっているのだと主イエスは話されました。そしてこの約束は、信仰を持つものへの祝福です。
 また、25節の「死んだ者」とは、「霊的に死んだ人」すなわち「罪人」で、主イエスのことばを聞いて信じる者は、ただちに、霊的に死んでいる罪の状態から救い出されて、永遠のいのちを与えられて、真に生きる者とされるのだと言われました。なぜなら、主イエスが、父なる神から、御子として、永遠のいのちを与えるようにとその権威を授けられているのは、それを信じる人々に命を分かち与えるためだからです。
 そして、人は誰でも終わりの日が来て、神の裁きの御座に立つようになります。その時に、イエスを信じる者には、すでに永遠の命が約束されているのだと約束してくださっています。
日本キリスト教団神戸平安教会
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