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牧師の部屋 

8月1日(日)説教要約 マタイによる福音書10章5~15「宣教への派遣」

 
 今日は平和聖日です。日本基督教団では、原爆が投下された広島や長崎の記念として、そして8月15日の第二次世界大戦における敗戦の日のことを心に留めて、敗戦の日の月である8月の第一の日曜日を、特に平和聖日礼拝と定めて守っています。
 真の平和を私たちに下さった救い主イエス・キリストの福音を伝えるために、主イエスは12人の弟子を使徒として任命し、派遣しました。主イエスは彼らに異邦人やサマリア人のところに行くなと言われています。キリストの福音は、まずイスラエルに対して伝えられました。なぜなら、主イエスの時代のイスラエルの民の状態は、飼い主のいない失われた羊のようであったからです(9章36節)。だから、彼らに御国の福音を伝える必要があったのです。そしてその必要に答えるために、主イエスは使徒たちを派遣したのでした。
 ではここで使徒たちは何を伝えるのか。それは、7節「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」主イエスが最初から語られていた宣教の言葉です。そして、8節「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」福音宣教をする時に、みことばを伝えますが、それに加えて、その人が神から遣わされたものであるということの証拠として、大きなしるし、奇蹟を行うという使命も彼らに与えられました。そしてそれを命令したのは、神の独り子であられる主イエス・キリストです。神の命令だからできるのです。そしてこの命令は、新約聖書の時代、使徒たちの時代に与えられた使命でもありました。
 9~10節は宣教者としての心得となります。つまり、神の国の福音を伝える時には、その全てを満たして下さる神を信頼して出て行くように、という事です。
 11~13節「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。 12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。 13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」平和、シャロームというイスラエルの挨拶ですが、それはまた祝福の挨拶でもあります。
今日は平和聖日です。主の平和が、全ての人に伝えられますように。主の平和が全ての人に受け入れられ、この地にとどまりますように。そして私たちも「キリストの弟子」として、主イエスに遣わされた者として、忍耐と寛容と柔和さをもって、この世にあって、平和を作り出す者となりたいと思います。
 

7月25日(日)説教要約 マタイによる福音書9章9~13「憐れみの福音」

 
 本日の本文では、罪を赦す権威を持っておられる主イエスが、罪人を招いておられることを見ることができる。主イエスは、伝道の拠点とされていたカファルナウムに来て、取税所に座っているマタイを見られた。マタイは取税所に座っていたということは、いつも通りに勤務していたようである。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマ帝国への税金が徴収されていた。その職を担っていたのが現地の徴税人であった。彼らは同胞から、ローマに収める以上の税金を取って私腹を肥やしていたので、人々から罪人の一人として数えられ、一般のユダヤ人からは避けられていた。その徴税人のマタイを見た主イエスは「わたしに従いなさい」と言われると、マタイは立ち上がって、徴税人である事を捨てて主イエスに従った。
 この後、マタイは主イエスを自分の家に招待して、宴会を開く。そこにはゲストとして徴税人や罪人も大勢やって来て同席していた。そこに、この宴会を非難するファリサイ派の人々が来て、弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。主イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。主イエスは、ご自身の来られた目的が、自分の病気に気がついている者たち、自分の罪を知り、悲しんでいる者たちに、神の憐れみによる救いを告げるためであるということをはっきりと示された。そしてホセアのことばを学んだなら、イエスが罪人を招くために来たというその目的と使命とを正しく理解すると言われた。しかしファリサイ派の人々は理解できなかったため、12章7節で再び同じことを注意される。
 マタイは主イエスの十字架の死と復活、そして聖霊体験を通して、この主イエスの憐れみの福音の素晴らしさを確信し、それを伝える者とされた。

7月18日(日)説教要約 マタイによる福音書8章5~13「異邦人の救い」

 ユダヤ人は神様に選ばれた特別な民という意識から、異邦人に対して差別をしていました。本日の話の中心は、この異邦人の救いについてです。
 5~6節「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。」主イエスのガリラヤでの宣教活動の拠点となった場所がカファルナウムです。そこはローマ軍の駐留地であり(マタ8:5‐8)、収税所がありました(マコ2:14)。著者マタイにとって、主イエスに出会い、弟子として頂いた大切な思い出の地でもありました。そのような所ですから、ローマ兵とその家族がその地域に住んでいました。百人隊長も主イエスの噂を聞いていたに違いありません。この時、百人隊長が息子のように可愛がっていた僕がいて、ひどく苦しんでいると主イエスに告げたのでした。並行箇所であるルカによる福音書7章3節では、お使いの長老たちがイエスのもとに来て、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と熱心に願ったほど、ユダヤ人を大切にしていた百人隊長だったようです。
 それを聞いた主イエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。当時のユダヤ人は異邦人とは交わりを持とうとはしなかったことを思えば、常識はずれのことばであり、行為であると言えます。
 8~9節「すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスに向かって「主よ」と呼びかけたということは、この百人隊長はイエスを救い主と信じていたとも言えます。しかも彼は「権威」を知っていました。10節「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」この時点での当時のユダヤ人の中にはこのような信仰を告白する者は一人もいなかったようです。その信仰とは、「主イエスの権威に対する信仰」です。百人隊長は、神の御子の権威に対する信仰を告白したのでした。
 13節「そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」ことばによって天地万物を創造された主イエスは、そのことばによって人を癒されました。キリストのことばには力があります。異邦人であっても、キリストを信じ、神から来る権威を信じていた時、その人も僕も救われたのです。 

7月11日(日)説教要約 マタイによる福音書7章15~29「生活の刷新」

 本日の聖書箇所は、山上の説教の最後の部分となる。13節で、「狭い門から入った」者は、次に「偽預言者たちに気をつけなさい」と警告されている。偽預言者は旧約聖書の時代からいた。ここで言う偽預言者とは、「律法学者」「ファリサイ人」と呼ばれた人たちのことになる。彼らは神が与えられた律法を解釈して多くの規定を付け加えた。人々を律法によって束縛していた教えは、律法を破る者に死を与える神を恐れさせることによって神に従う者となるようになっていたが、その背景には貪欲が隠れていた。主イエスは律法の本当の意味を教えてくださったが、このことがユダヤ人全体に大きな反響と影響を与え、ユダヤ人指導者たちには自分たちの足元を揺るがす大きな脅威と映った。
 ペトロやパウロがいた初代教会においても偽預言者、偽教師が表われ、新しく生まれた教会とクリスチャンたちを陥れていた。そして、今日においても、将来においても、そのような偽預言者は現われる。それに備えて、私たちは主イエスの正しい教えを常に学んで行かなければならない。
 ところで、その偽預言者を私たちはどうやって見分ける事ができるのか?それは、その実によって彼らを見分ける事ができるのだと言われた。しかしよく考えて見てみると、これはまた、「偽預言者たち」を見分けることがいかに難しいものであるのかという事も示している。なぜなら、実が実るまでは、その真偽が分からない事があるからである。
 21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」天の御国に入る条件がここに示されている。それは、口先だけで神様をたたえるのではなく、「天の父の御心を行う者だけ」が天の御国に入る事が出来るのだという事である。「かの日」とは最後の審判の日の事である。
 私たちがキリストに結ばれて、それまでの間違っていた〈常識〉や〈言い伝え〉という罪の生活から抜け出し、福音に根差した生活に刷新するためには、岩なるキリストを土台として、その信仰の生活を送らなければならない。そしてそれを可能にするのは、キリストのことば、神の御言葉を土台とした信仰生活を送る事である。しかしなかなかできない事もあるが、共にいて下さる聖霊なる神が、神のみこころを可能としてくださり、みこころに生きる力をくださる。聖霊はキリストの霊である。聖霊の導きによって、御言葉に聞き、信じて、神のみこころに生きる者となりたいと思う。

7月4日(日)説教要約 マタイによる福音書7章1~14「祈り」

 祈りとは、霊的な呼吸である。どうして私たちは神に祈るのか。それは、主イエスご自身も祈っておられたからである。(マルコ1:35)私達も祈りの模範者である主イエスの様に、絶えず祈らなければならない。
 7節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」ここで「求めなさい」と主イエスが教えておられるのは「何も求めない」という誤りに陥りやすいからである。なぜならこの直前に主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と言っておられるからである。これを聞いた群衆が、「衣食住などを願い求めるべきではない」と間違って受け取ってしまい、「神にすべてをゆだねるなら、神に願い求める必要はない」という誤りに陥らないようにするためである。主イエスは「心配するのを止めなさい」と言うと同時に「求めなさい」と言っておられる。続けて求める事、続けて探すこと、続けて門をたたく事。この主イエスの命令に従う時、私たちは天の国の宝をいただくことができる。
 8節「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」神様の祈りの応答には4つのタイプがある。①即答。②NOだめだ。③待ちなさい。④代わりのものを下さる。
 主イエスの語る天の御国の福音の教えでは、イスラエルの神は善いお方であり、自分の子には最も良いものを与えたいと願っておられる父である。そして神をそのように呼ぶことは、イスラエルの人々には驚きの出来事でしかなかった。さて11節で「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださる」という「良いもの」が何であるのかはマタイには書かれていないが、ルカはそれが「聖霊」であると書いている(ルカ 11:13)。「聖霊」は「天の御国の福音」 をこの地上に目に見えるかたちで実現させるためには、なくてはならない私たちに与えられた神さまからの賜物なのである。
 また祈りというのは、関係性を持っているものである。12節「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」聖書の中で黄金律と言われている個所である。ここでは人間関係を大切にする事、これが律法と預言者、つまり旧約聖書全体が求めている生き方だとイエスは解き明かされた。「おのれの欲せざるところは人に施すことなかれ」という儒教の孔子の教えがあるが、そのことばより、主イエスの黄金律は積極的である。

6月27日(日)説教要約 マタイによる福音書6章22~34「主にある共同体」

 「主にある共同体」とは、主イエス・キリストによって集められた共同体、教会のことである。初代教会では主の再臨がすぐに来ると思っていたので、人々はその生活のすべてを主イエスの教えを基に共に生活をしていた。
 ペンテコステ、聖霊降臨によって始まったキリスト教会は、その後厳しい迫害の時代を迎えるが、人々の祈りと迫害によってますます強まる信仰と伝道に、ローマ帝国内には多くのキリスト者が生まれてきた。そのような波の中で、ローマ帝国は313年にミラノ勅令でキリスト教を公認する。それ以降、教会は政治的な力を持ち始め、富と権力を手にするようになった。
 ところが、歴史を通して、私たちは人々が富と権力を手にした時に、堕落していく姿を見る。教会のすべてが堕落した訳ではないが、一部の弱い人間はその魔力に惑わされて罪を犯してきた。24節「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」悪魔が人間を最も簡単に誘惑できるもの、それは富と権力である。富に対してどのような考え方と態度を持つかによって、私たちは神の子となるか、悪魔に支配されたものとなるかが決まると言っても過言ではない。また権力も、富がついて来る時、さらに人々の心を惑わせる。
 聖霊を受けて始まった初代教会の人たちは人と自分を比べて見たり、人に嫉妬したりする心はなかった。そして誰ひとり「これは自分のものだ」とは言わないで全てに感謝して、他者を思いやり、精神的に非常に満足した生活を送っていた。それによって、主にある教会共同体は一層強くされていた。使徒言行録を見ていると、教会としてすべてを共有していたが、それは自発的な行動であって、決して強制ではなかった。しかし、この共同体の在り方は永続的なものでもなかった。ただこれは必要に応じ、必要な時に実行された出来事であったようだ。
 バルナバを代表的弟子の一人とする初代教会のクリスチャンたちは、ただ主イエスの教えに忠実なだけであった。33~34節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」この主イエスのみことばを信じ、みことばに生きていたのだ。
 ただ主に仕えて、主の導きに従う者の集いであった。そのようなキリスト者たちの喜びの生活と主に仕える行動が、300年近くたって、迫害するローマ帝国に、その国教となる決断をさせた。またバルナバのように、一人の大伝道者を作り上げるために用いられた。そして今日に至るまで、多くの人々がキリストの元に導かれ、名もなきキリスト者の一人として、しかし多くの業を成し遂げている。私たちもそのような主にある共同体の一員であることを覚え、これからも何よりもまず、神の国と神の義を求めて生きるキリスト者でありたいと思う。

6月20日(日)説教要約 マタイによる福音書5章21~37「新しい義」

 主イエス・キリストがこの世に来られた事は、神の御子キリストが私たちの間に来てくださった事であり、天の国が到来したという意味がある。御子はまた、父なる神と共に天地創造の業から共に参与しておられ、人に与えられた十戎の意味するところをよくよくご存知であった。だから、御子は21節以下では、天の国に生きる者と律法との関係について語られる時、神がどのような意図でこの戒めや律法を授けられたのか、その解釈についての新しい教え、新しい義について教えてくださった。十戎は神が直接モーセに授けられた掟である。その中から「殺してはならない」「姦淫してはならない」の2つが取り上げられている。ここで主イエスは、「あなた方も聞いているとおり、○○○と命じられている。しかし、私は言っておく。」という形式で6回語っている。これは、神が与えられた律法の教えに対する律法学者の誤った律法解釈を否定し、厳しい口調で新しい解釈、神の視線からの解釈を語られた時の形式である。
 「殺してはならない」とは、単に殺人を犯すことだけを言うのではなく、兄弟に腹を立てる事も含まれている。23~24節「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」とある。礼拝に出て捧げ物をすることは、罪のために関係が切れてしまった神との関係の修復がその目的であり、贖罪・賠償・和解などの目的がある。しかし、怒りや怒りの表現がそのように殺人罪に問われるのであるから、もし自分が人にそのような恨みを抱かせるようなことをしていたのを思い出したなら、供え物をささげている途中であっても、それを中断して、まず相手のところに行って和解し、それから供え物をささげなさいと、主イエスは命令される。
 姦淫については、申命記22章以下に詳しく規定されている。姦淫とはすでに結婚している関係であるから、他の夫婦の誓約の中に割り込む罪であり、自らの誓約に対する背信行為、裏切りである。「みだらな思いで他人の妻を見る」のは、第十の戒め(出エジプト20章17節)をも破ることになる。主イエスは道徳的に健全な生活をするようにと教えられた。
 離婚してはならないと言うのは、当時の律法学者は妻に離婚状を簡単に書くことができると言っていたからで、主イエスは女性の立場を守る意味で教えておられる。ここでも主イエスは、自分勝手な律法解釈に対して、間違いを指摘された。
 そして主イエスは誓ってはならないと言われる。律法学者たちは誓いを二種類に分け、神の名によるものは絶対に守るべきであるとし、神の名によらないものはその限りでないとした。誓う時に神の名を使ったら神は関係してくるが、使わなかったら関係してこないというのがその考え方である。主イエスはこの詭弁的偽善を指摘しておられる。このように、天の国は、神の律法が私たちの解釈や努力によってではなく、徹頭徹尾、神によって成就する世界なのである。

6月13日(日)説教要約 マタイによる福音書5章13~16「世の光としての使命」

 マタイによる福音書5章では、まず初めに山上の説教、山上の垂訓とも言われている8つの天の国についての教えが述べられている。天の国にいる祝福された者とはどのような者であるのかを教えてくださった。その後に書かれているのが本日の聖書本文である。天の国での祝福を受ける弟子たちには、使命がある。それが、地の塩であること、世の光であることである。
 福音書の書かれた時代はキリスト教に対する迫害の時代であった。そのような中にあっても、地の塩のように生きる。塩は調味料として、味を調える役目がある。この世にあって神の愛と義を示し証しする者として、塩のように、見えないけれども確かに塩味がするといった存在感を示す。また塩には防腐剤としての役割があり、世の腐敗を示し、世に溶け込んでその堕落を防ぐ働きをする使命もある。
 イスラエルの地域には岩塩が多くあり、塩気が無くなったものは捨てられるという。またマルコによる福音書9章49節では、「人は皆、火で塩味を付けられる」とある。「火」とは試練や迫害であり、火によって精錬されていくように、火のような試練が信仰者を天の国の民としてふさわしいものにしてくれる。また、聖霊の火によって、キリスト者は作り変えられていく。激しくなる迫害の中で、聖霊の導きによって信仰を守られ鍛えられていく信仰者たちの体得したみことばである。
 「光」は物を照らして、見えるようにする。暗闇の中では物を正しく見分けることができない。夜空の星も周りが暗ければ暗いほど良く見える。また光は、警告を促す時にも使われる。例えば、信号機の赤と黄色いと青い光のように。
 旧約聖書のイザヤ60章1節には「起きよ!光を放て」という光を放つ使命を強調するみことばがある。また、使徒パウロはエフェソの教会員に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」(エフェソ5:8~9)と書き送っている。
 世の光である究極的な目的は16節にあるように、神を崇めるように光としての使命を果たすことにある。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
 地の塩、世の光としてのキリスト者の善き行いは、自分に、あるいは行為自体に注意をひくためのものではなく、神に栄光が帰せられるためのものである。ここで、「天の父」と主イエスが言っておられるが、「天の父」が神の呼び名として、マタイ福音書ではこの箇所で初めて用いられている。天の国の祝福された者として地の塩、世の光として生きようとする者を、「天の父」は天の国の子としてくださる。天の国の子として、この世にあって地の塩、世の光として天の父なる神が崇められることを願いながら生きる者となろう。

6月6日(日)説教要約 マタイによる福音書3章1~6「悔い改めの使信」

 バプテスマのヨハネはメシアの前に遣わされる預言者として特別な存在であった。旧約時代の最後の預言者であり、新しい時代への橋渡しをする人であった。
 彼は、預言者イザヤによって預言されていた「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(イザヤ書40章3節)と言われていた者である。バプテスマのヨハネは、イスラエルの最後の預言者であった。彼は四百年もの長い預言の沈黙の期間を破って「荒れ野で叫ぶ者の声」として現われた。そしてメシアの到来の近くなった時、人々に対して、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と告げた。
 ヨハネは預言者エリヤのように毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とするといった質素な生活をした。また、エリヤがカルメル山でイスラエルの人々に激しく決断を迫ったように、悔い改めの宣教をすると、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、群衆がやって来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ここで、バプテスマのヨハネが現れたという表現の中に、ユダヤ人たちの憧れていた「救い」の時代が「到来した」という喜びを、私たちは見る必要がある。マルコによる福音書1章4節では、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とある。バプテスマのヨハネは、罪の赦しを得るための悔い改めを説き、そのしるしとしてバプテスマを授けていたのである。
 そのヨハネの使信は単純明快である。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。「悔い改め」のギリシャ語「メタノエオー」の中心的意味は、「心の方向転換」である。過去に犯した罪やあやまちを後悔することや、悲しむことを意味しているのではない。そうではなく、心を入れ替えて、態度が変化をすることを意味している。ただ感情的なのではない。それよりはむしろ道徳的、意志的な意図を持って、全人格的に変化することである。なぜなら、この悔い改めは「天の国は近づいた」から必要となってきたのだ。ヨハネの言う悔い改めは、現世における罪の悔い改めでもありながら、天の国の到来、すなわち最後の審判への準備でもあるのである。
 ヨハネの偉大さはその働きの中に見ることが出来る。彼は特別なしるしや奇跡を行なったとは書かれていない。単純に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説いた。彼はエリヤの霊と力を持って来たのに、エリヤのように天から火を呼んだり、人を生き返らせたりはしなかった。
 またヨハネは一か所にいたのではなく、伝道のためにヨルダン川沿いを歩き回って宣べ伝えた。こうしてヨハネの説教は人々の間に広がり、イスラエルの全域から群衆がヨハネの元に集まってきて、その信仰と行いを悔い改めてバプテスマを受けた。彼らは、時が来て、神が遣わされた最後の預言者、バプテスマのヨハネの悔い改めの使信を聞いて、その魂が揺さぶられ、罪の赦しを受けて真の救いの道を知った。そしてバプテスマを受けて救われたのである。

5月30日(日)説教要約 マタイによる福音書11章25~30「神の富」

 主イエスが福音を宣べ伝えられた時、教えと多くの奇蹟によって、ご自身が神から遣わされた者である事をお示しになった。それを聞いて見た人々は、熱狂的に主イエスを信じて従った。しかし時が経つと、主イエスを信じるどころか、拒絶し反対する者が現われていた。そのような者が多くいた悔い改めない町に対して叱られたその時、主イエスは御父を仰ぐことによってその憤りを完全に捨て、ご自身を信じて従う弟子たちの救いをこそ喜ぶ喜びに満たされておられた。
 ではどう祈られたのか。主イエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」と祈られた。祈りは祈る人の心からの姿勢を示す。この感謝のことばは、主イエスが父なる神の御旨に全面的に従っておられることを示す。そして、イエスがキリストであるという福音の真理について、目を閉ざした者もいるが、幼子のように受け入れるものにはそれが示されていると言う。福音の真理を知るには、主イエスの啓示が必要なのである。
 そして言われた。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 この世にあってキリスト者としての人生を送ることは、決してたやすいことではない。しかし、キリストがともにいてくださる。それゆえに、荷は軽いのである。主イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われる。イエスの荷が「十字架」であるならば、とても軽いとは思えない。それなのになぜ軽いと言われるのか。それは、わたしたちの軛・重荷を主イエスが共に担ってくださるから「軽い」のである。主イエスはすべての重荷をみずから負い、イザヤ53章の「苦難の僕」のように、みずから懲らしめを受けられた。それは、われわれに平安を与えるためである。そしてわれわれを招かれる。彼は子羊のように柔和で、謙遜なお方である。主イエスは上から目線ではなく、「柔和で謙遜な」人生のコーチである。なぜなら、イエスご自身が、苦しみを受け、恥を受け、拒絶を受けたことがあるからである。このイエスが手をとり二人三脚どころか「くびき」を負ってくださると言われる。それは、「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と約束して下さる。この主イエスと共に歩み、魂の安らぎを常にいただく者となりたい。

5月23日(日)説教要約使徒言行録2章1~11「聖霊の賜物」ペンテコステ礼拝

 教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日である。イエスの復活を祝うイ―スターの日から五十日目に当たる日に、聖霊が降ったことから、この日を「ペンテコステ」という。主イエスの昇天後、使徒たちはすぐに彼らが泊まっていた家の上の部屋に集まった。十一使徒は、婦人たちや、イエスの母、兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。このようにして、五十日間、主イエスが約束された聖霊の到来を待っていたことが、最初の教会誕生のための準備の期間となった。
 エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた。エルサレム巡礼に来て、一時的に滞在していた人もいた。エルサレムに住むこのような大勢の人が、この聖霊降臨の出来事の物音に集まって来た。だれもかれもが、自分たちが生まれた故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。自分たちの外国の生まれ故郷の言葉を、ガリラヤ出身の使徒たちが話すのを聞いて驚いたのである。この時の聖霊の賜物は異なった言葉で語るという奇跡的な賜物であった。
 聖霊はわたしたちに聞く価値のあることを語らせてくださる力であり、聞く人に希望と命と力を与える。聖霊はイエスの十字架と復活を証言する力であり、教会を全世界へと押し出す原動力である。これからはもっと聖霊に満たされて歩みたい。
 聖霊の賜物は、生まれつきの才能とは少し異なる。勿論、全ての人に与えられている才能も、神から与えられたものである。教会はクリスチャンに交わりの機会を提供し(各機関、祈り会等を含む教会に関したすべての交わりの機会)、兄弟姉妹たちとの霊的な交わりを持つことによって賜物を見つけられるようになる。賜物を見つける最も確実な方法は、自分がやっている奉仕にやりがいを感じていること、それが教会のためになること、他の方々が慰めと平安を得ているかを確認することである。すべての賜物は、自分のためにではなく、教会で徳を高めるために与えられている。自分が属している教会の発展のために、自分にできること、自分の賜物を十分に生かすことができれば、それこそ私たちのなすべきことである。聖霊は、このようにクリスチャンがそれぞれの賜物を見つけ、教会員として奉仕できるように導かれる。

5月16日(日)説教要約ルカによる福音書24章44~53「キリストの昇天」

 主イエスの昇天物語はルカによる福音書と使徒言行録にのみ記されている。主イエスが昇天されたのは復活後40日目で(使徒1:3)、場所は「オリーブ畑」と呼ばれる山(使徒1:12)である。ルカによる福音書24章50節では昇天の場所は〈ベタニア〉と記されている。
 天に上げられるということは、弟子たちから離れることであり、彼らにとって本来悲しい出来事であるはずである。しかし、弟子たちは十字架の死によりイエスを失った時のように、悲しみにくれるようなことはなかった。弟子たちにとって、この出来事は、イエスが遠くへ行ってしまうということではなく、むしろ逆に、天の神が近くなり、救いの世界が近くなるので、喜ばずにはいられなかった。
 本日の本文を見ると天に上げられるイエスを見て、弟子たちはイエスを伏し拝んだ。この「伏し拝む」は「礼拝する」ことを表す言葉で、この福音書の中で弟子たちがイエスを礼拝したと記されているのはここだけである。弟子たちはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。ここで初めて弟子たちはイエスとはどういう方であるかを本当に理解するようになった。こうして、主イエスが弟子たちに特別な形で姿を現す期間は終わり、目に見えない形で彼らとともに歩み続ける時代が始まる。
 私たちの歩みは肉体の死で終わる歩みではなく、死を通って最終的に神さまのもとに、天に至る歩みなのである。昇天はつねに神秘として残るものである。イエスの姿がだんだん小さくなり、ついに見えなくなったということは、とても考えられないことだった。それは人々の信仰をくじく効果しかなかったはずである。またキリストの昇天とは、地上のイエスが、天のキリストとなる日だった。しかし弟子たちにとっては、昇天は明らかに次の事を意味していた。歴史的なイエスという血肉をそなえた人を信じていた時代は終わった。
 しかし同時にそれははじまりだった。弟子たちは意気消沈してその場所を去ったのではない。もはや何ものも、自分たちから師を引き離すことができないことを知ったからである。さらに、キリストの昇天は弟子たちに地上にだけでなく、天にも自分の主がいるという確信を与えた。

5月9日(日)説教要約マタイによる福音書6章1~15「イエスの祈り」

 主イエスは弟子たちに、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と言われ、祈りを教えてくださった。主イエス・キリストが教えてくださった祈り、主の祈りである。ではなぜ主イエスは「こう祈りなさい」と言われたのか。それは、当時のユダヤ人たちの祈りの生活には、祈りの偽善が蔓延していたからである。
 この祈りは、「天におられるわたしたちの父よ」という御言葉で始まる。祈る時には、誰に向けてするべきかが大切であることを教えてくださった。祈りの対象は天の父である。「御名が崇められますよう」というのは、私たちに神だけを礼拝し、神がどういうお方かを知って賛美することを教える。
 主が私たちに教えてくださった次の祈りは、「御国が来ますように」私たちの信仰の目標はまさに、この「神の国」「天国」だと言うことができる。この神の国に関する表現だけでも福音書では100回以上も使われている。
 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」とは、私たちに、自分の生活にも世界においても、「自分の」ではなく「神の」ご計画が為されるように祈るべきだと言うことを思い出させてくださる。私たちは自分の願望ではなく、神のみこころがなされるようにと祈るべきなのである。 
 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と言う祈りは、私たちの必要を神がかなえてくださるようにと祈ることを勧めている。              
 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」 とは、神に自分の罪を告白し、神が私たちを赦してくださったので、人を赦すべきだということを覚えさせる。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」とは、罪に打ち勝つために助けを願い、サタンの攻撃からの守りを願うものである。
 主イエスが教えてくださった祈りの最後は「国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり。アーメン」である。これは私たちが祈りを捧げる目的、内容、その過程が最終的に何のためであるのかを教えているのである。
 祈りの最後には「アーメン」と言う。「アーメン」とは「そのようになされることを願う」という意味を持つ。祈りに対する神の応答の確実さが、アーメンを通して確証されることを教えるのである。

5月2日(日)説教要約ヨハネによる福音書14章1~11「父への道」

 最後の晩餐の時、主イエスは弟子たちのところから去って行かれる事を話された。地上を去る日の近いことを聞かされた弟子たちが動揺するのを見過してイエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じる。主イエスは弟子たちに希望と平安を与えるために、「父の家」について語られた。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」父の家に迎え入れられる事、それはイエスを主と告白し、従って来た彼らが受ける報い、天における祝福である。またそれは単なる慰めの言葉ではなく、弟子たちへの約束であった。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」という主のことばをよく理解できなかった弟子の一人であるトマスは、主イエスに率直に質問した。主イエスは「「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と、ご自身が道であると宣言された。その道はどこに通じる道か。それは父なる神が住まれる天国へと通じる道である。主イエスは私達と神との間に和解をもたらし、私達が神へと向かう道、天国の道を拓いてくださった。私達は主を通って天におられる神の元に行ける。そこで主と、神とに出会い、また、愛する者と再会することができる。
 このように主イエスの言葉は、天の父への道を指し示すものであった。即ち、主イエスを知ることが道であり、しかも天の父の御許へたどり着く唯一の道である。主イエスを知るようになった人は、天の父をも知るようになる。このように御父と御子は一つなのである。その意味で,イエスを見た者は父なる神を知る者であり、父を見た者である。それに対して、続いてピリポが「父を見せてください」と求める。主イエスが答えられた、わたしを見た者は父を見たのであるとは、御子が御父におり,御父が御子におられるという一体性を教えられている。
 主イエスの言葉とわざとがイエスをお遣わしになった方の言葉であり、教えであるということについても、何度となく言及されていた(3:11,5:19,8:28)。その意味でイエスを見た者は父を見たと言うことが出来るのである。主イエスこそ私たちが父なる神へ進むべき真の道であることに感謝しよう。

3月14日(日)説教要約マタイによる福音書17章1~13節「主の変容」

シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしてから、主イエスはご自身の苦難の道を弟子たちに話し始められた。それから6日後、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて、祈るために高い山に登られた。その山上でイエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。モーセとエリヤが出てきて主イエスと話し合っているのをペトロは見た。モーセは律法の代表者であり、エリヤは預言者の代表者である。つまり、モーセとエリヤは旧約の代表者と言える。ペトロがイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と。

 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。主イエスは、どんな偉人とも同列に置かれるべきではない。私たちの唯一の救い主、また王なのである。 

イエス・キリストは、旧約聖書の預言通りに来られ、救いの預言を成就するために、これから苦難の道を行かれようとしている。この世での最後の時が近づいた時、弟子たちに、その事をはっきりと示すために、また、その後に弟子たちに起こる大迫害の時にも、確かにイエスが神の御子であったことを確信させるために、ご自身のまことの姿を見せられた。

3月7日(日)説教要約マタイによる福音書16章13~28節「受難の予告」

主イエスは「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子たちに訊ねられた後、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれた。これに対してペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をする。このペトロの信仰告白を一つの転機として、主イエスの行動は、次の段階、十字架への道へと移る。ここでイエスは四つのことを予言した。(1)エルサレムに行くこと(2)長老たちから多くの苦しみを受けること(3)殺されること(4)三日目に復活すること。しかし、弟子たちは理解しなかった。

マタイ16:22「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言った」。するとイエスはペトロに言われた「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔する者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。そして言われた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

主イエスに従うとき、復活の栄光にあずかるための私たちの負うべき十宇架をも主が備えて下さる。主イエスが先立って十宇架を背負われ、その主イエスの後に従って私たちはただ歩むだけなのである。イエスご自身が受けた受難の十字架を通して、私の復活に至る道が備えられた事に感謝する。

2月28日(日)説教要約マタイによる福音書12章22~32節「悪と戦うキリスト」

本日の聖書箇所は、主イエスとファリサイ派の人々との間でおきた論争について書かれている。主イエスが「目が見えず口の利けない」身体の不自由な人をいやされたことがことの発端である。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」、つまり、メシアではないかといぶかり始めて言った。「ダビデの子」とは、メシアに対して使われていた称号である。

ところが、ファリサイ派の人々は悪霊から解放された人の事を喜ぶどころか、むしろ「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。彼らは、主イエスにおいて、神の霊が働き、悪霊、悪の力、罪の力が打ち破られていること、そして、それによって神の国が到来している、ということを認めたくなかったのである。

それに対して主イエスは、内輪もめすると内部分裂してしまう、「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」と反論した。そして、「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。」と言われた。これは一般のユダヤ人魔除け祈祷師のことで、彼らも悪魔の仲間とされてしまう。そうなると、彼らがファリサイ派を裁く者となる。また、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と指摘する。つまり主イエスは、神の恵みの支配が始まっていると言われたのである。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」これは神と悪魔は敵対関係にあり、そこでは中立状態はあり得ない事を示している。

主イエスはさらに「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と言われた。私たちは神の恵みの慈しみと厳しさをしっかりと心にとめなければならない。

2月21日(日)説教要約マタイによる福音書4章1~11節「荒れ野の誘惑」

バプテスマのヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、人々に洗礼を授けていた。イエスは、そのヨハネのところで洗礼を受けられた。イエスが水の中から上がられると、天がイエスに向かって開き、神の霊が鳩のようにイエスご自身の上に降ってきた。その時、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえた。父なる神の声である。この出来事の後に、本日の聖書本文が書かれている。

ヨハネからバプテスマを受けた主イエスは、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食の祈りをされた。するとそこに、悪魔がやってきてイエスを試みた。悪魔の誘惑である。聖霊を受けた者は、主が共におられる事を実感し、自身の心が清められ、喜びと平安に包まれまる。しかし、聖霊に満たされた者はまた、荒れ野へとその道を歩むことになる。そしてそれは聖霊に送り出される道でもある。荒れ野は、神との交わりの場、祈りの場でもあり、またサタン、悪魔が誘惑してくる場でもある。

断食をして、おなかをすかしている主イエスに、サタンは「この石に命じてパンにしてみろ」と言うと、主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と申命記8章3節の言葉でそれを拒否した。次にサタンは高い所に主イエスを連れて行って「ここから飛び降りてみろ。神の使いがお前を支えてくれるだろうから」というと、主イエスは、「神を試みてはならない」と申命記6章16節でサタンの誘いを退けた。そして最後にサタンは、この世の富と栄華を見せて、「わたしにひざまずけば、これをお前にあげよう」と言うと、主イエスは「『ただ神にのみ仕えよ』と聖書はいっている」と申命記6章13節の聖書のみことばをもってサタンの誘惑を拒否した。「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(ヨハネの手紙一2:16)

神の御子であるイエスにも誘惑はやってくる。悪魔はどんなに人のところにもやって来て、誘惑をする。だから主イエスは「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」と、常にこの世の誘惑に警戒すること、そして祈りと霊の満たしとみことばによって自分の心を守ることを教えられた。

2月14日(日)説教要約マタイによる福音書14章22~36節「奇跡を行うキリスト」

本日の聖書本文の一つ前で、主イエスは5つのパンと2匹の魚で成人男子だけで5000人が満腹になる奇跡を行われた。しかし、弟子たちがパンの奇跡とそれに伴う人々の反応で有頂天になってしまわない為に、強制的に船に乗り込ませ、向こう岸へ行かせた。舟は既に陸から離れており、逆風が吹いていたために、彼らは波に悩まされていた。

主イエスは夜明け頃、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは波と風に悩まされ、恐怖も抱いていたので、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、主イエスはすぐに彼らに声をかけて、「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」と言われた。するとペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言ってしまった。

主イエスが、「来なさい」と言われたのでペトロは舟から降り、水の上を歩いてイエスの所へ行った。しかし強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので「主よ、助けてください」と叫んだ。主イエスはすぐに手を伸ばし、ペトロをつかまえて、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われた。二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

ペトロは主イエスの言葉に従って、今まで経験したことのない体験をした。しかし、目の前の出来事を見た瞬間怖くなり水に沈みかけた。そのような失敗を通してそれが教訓になり、弟子たちの信仰が深まり、彼らの信仰が成長していく。主イエスと共に舟に乗り込んだ時のように、キリストを私の中に迎え入れた時、平安が訪れる。試練を通して神は多くのことを教えてくださる。イエス・キリストを知ることが出来たのは何と素晴らしいことであろうか。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われたイエスの言葉を忘れないようにしよう。

33節を見ると、弟子たちは、イエスの水上歩行、ペトロの救出劇、嵐の静まりを通し、イエスを「拝んで」、「本当に、あなたは神の子です」と言った。この後、キリストを乗せた舟は向こう岸に到達する。彼らは今回の体験を通して、キリスト観が進歩した。イエスのすばらしさをさらに知る者となった。私たちもまた、イエスを知る歩みの中に置かれている。

2月7日(日)説教要約マタイによる福音書15章21~31節「いやすキリスト」

 主イエスはガリラヤからティルス、シドンの地方へ行かれた。そこは地中海に面したフェニキアの町(現在のレバノン)で、異邦人が多く住んでいる所である。その時、カナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んだ。22節の「出て来て」というのは、異教の精神的、文化的、宗教的世界から出てきたという事。ユダヤ人とカナン人はお互いに反目しあっていた。しかしそのカナンの女が娘を思う一心から主イエスに救いを求めているのである。「主よ、ダビデの子よ」と叫んだのは、彼女の実存をかけた心の底からの叫びであり、メシアの救いを求める異邦人の心の底からの求めなのである。

カナンの女の求めに対して、主イエスは3度も拒否されていたが、2度目の拒否の理由はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていないというものであった。主イエスはまず、イスラエルの救いのために働く計画があった。しかし、イスラエルに注がれた恵みは、イエスを信じる異邦人にも及んでいくのである。主イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」小犬である事をわきまえつつ「食卓から落ちるパン屑」はいただくことが出来るという謙遜と信仰を告白している。つまり、この異邦人の女性は、ほんの少し、パンくずほどのあわれみを下されば、主イエスから力をいただくことができるのだという信仰を表明したのである。そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。彼女のねばり強さは神を信じる信仰に基づいたものであって、事態をより良い方向へと変えることのできたのである。主イエスは彼女の信仰を称賛し、彼女に限りない愛を示された。

そしてガリラヤに行かれて、山に登って座っておられると大勢の群衆が来たので、さまざまな病の人を癒された。彼らはイエスのわざを見て驚き、イスラエルの神を賛美したとある。つまり、癒された者の多くが異邦人であることが分かる。ここでも「食卓から落ちるパン屑」であるメシアの救いのめぐみが異邦人にも与えられていたことが分かる。

1月31日(日)説教要約マタイによる福音書5章17~20節「教えるキリスト」

 5章で主イエスは山上の説教を教えられた。それは律法学者やファリサイ派たちの教えとは違い、神の国について、神の義についての権威ある、新しい教えであった。しかしだからといって、主イエスが来られたのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。つまり、誰一人全うできなかった律法を成就してくださったのが主イエスなのである。「律法と預言者」とは旧約聖書全体を意味する。即ち「イエスは旧約の完成者である」というのが、マタイ福音書を貫くイエス理解である。

 また18節に、すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法(ここでは旧約全体を指す)の文字から一点一画も消え去ることはないと言われる。18節で、主イエスによる救いが成就するまで律法は効力を持つと述べられていたが、19節ではそれを報いのテーマと関連させている。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

20節では「あなたがたの義」と律法学者やファリサイ派の義が対比されて、主イエスの見解が示されている。「律法学者」は律法の解説者であり、教師のこと。「ファリサイ派」は「分離された者」の意で、律法を最も形式的に厳密に守る正統派敬虔主義者たちのこと。あなたがたとは、主イエスの呼びかけに答えて彼に従う者たちのことである。あなたがたの義とは何か。主イエスによって律法と預言者つまり旧約聖書が成就することでもたらされる神との新しい関係の源であり、主イエスによってもたらされた神の国に入るための条件である。

主イエスが問うのは外面的な実行に先立つ、内面的な姿勢である。外面に現れる行為よりも先に、その行為の源となる心のありようが問われるのである。「義」とは、正しさである。あなたがたの正しさが、律法学者やファリサイ派の人々よりもまさっていなければ、天国には行けないと主イエスは言われる。主イエス・キリストは、邪悪と背教のために失われていた完全な福音を回復され、誤った教えを正し、旧約聖書の預言者によって伝えられた預言を成就された。これからも主イエスの教えに従って信仰者としての道を歩んでいこう。

1月24日(日)説教要約マタイによる福音書4章18~25節「最初の弟子たち」

主イエスが宣教を始められてからまず、アンデレ、シモン・ペトロ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの4人を最初の弟子としてお召しになった。それは福音宣教の使命を果たさせるためである。「わたしについて来なさい」という言葉は、イエス・キリストの招きである。その招きはあらゆる時代の、あらゆる人々に語りかけられる神のめぐみの招きである。マタイは4人が主イエスの招きの言葉に、すぐに一切を捨てて従ったと記している。実はマタイ自身も、マタイ9:9で、主イエスの招きにすぐに応じている。弟子たちへの召命に対して、主イエスの持たれている主権、召命の迫りを感じたのであろう。すぐにすべてを投げ捨てて従ったことこに、召命への応答の模範を見る事が出来る。

4人の弟子のうち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、弟子たちの中でも中心人物となり、主イエスの変貌にも、ゲッセマネの園にも選ばれて同行した。アンデレは5千人を養う奇蹟の時に、重要な役割を果たした。このように、最初の弟子になった使徒には、特別な使命を帯びて派遣された者という意味がある。彼らには特別な才能や力があった訳ではない。ただ神の力によって宣教に命をかける者となった。私たちも、主イエスが今も生きておられる神の子であることを信じることができるならば、このイエスの招きに喜んで従うことができる。このような信仰も献身も、全ては聖霊の導きによるものである。そして何より重要なことは、まず主が招いてくださらなければ何も始まらないということである。マタイ4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。この主イエスの招きの言葉の背後にある、主の権威と愛によって弟子たちは捕らえられた。ドイツのナチスによって殉教した牧師ボンヘッファーは「キリストの生涯は、この地上でまだ終わっていない。キリストはその生涯をキリストに従う者たちの生活の中で、更に生きたもう」と言った。

主イエスは、バプテスマのヨハネと同じく「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣教を始められたが、ヨハネのように荒野に人々を集めるのではなく、人々の中に、自分から入って行かれた。ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆の病気、わずらいをお癒しになさった。私たちもキリストに倣い、隣にいる人の元に行って、キリストの福音を伝えていこう。

1月3日(日)説教要約マタイによる福音書2章13~23節「エジプト避難」

 ヨセフとマリアが幼子イエスとベツレヘムで暮らしていた時、東方の占星術の学者たちがきて、幼子イエスに礼拝し、捧げものをして帰った時、主の天使が夢でヨセフに現れてエジプトに逃げなさいと告げました。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしているからです。ヨセフは、すぐに起きて、夜のうちに幼子イエスとマリアを連れてエジプトに去り、ヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在しました。貧しい彼らには、その直前に黄金、乳香、没薬が与えられています。神のご計画を歩む時、その人は、確かに神の御手の中にいる事をさまざまな事を通して知らされます。ヨセフとマリアもそうでした。見ず知らずの羊飼いたちがやって来て、天使が救い主がお生まれになったと告げたと興奮して聞かされました。ある日突然、位の高そう異邦人の学者たちが現われて、幼子を礼拝し、高価な贈り物をしてくれました。そこに天使のお告げがあったのです。マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていました。マタイによる福音書1章と2章では、主の天使が5回夢で現れます。4回はヨセフに、1回は学者たちに現れて、神様のみこころを示され、神様の御業のために動く者を導かれました。

幼子イエスがエジプトに逃げて生活し、また戻ってきた事を、主の預言の実現だと言っています。ホセア書11章1節のみことばです。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」これは、神様がエジプトで厳しい奴隷生活をしていたイスラエル人を解放して下さったことを指しています。幼かったイスラエルはエジプト脱出後、40年間荒野で生活をしながら、創造主が自分たちの神である事を知り、正しく認識し、整えられて、神の民となっていきました。それと同じように、キリストが登場することで、キリストの民、キリストの弟子がこれから生まれてこようとしているのです。イスラエルがモーセによって奴隷から解放されたように、モーセに勝る指導者、イエス・キリストがイスラエルに出て来て救い主となり、人々を罪の奴隷から救うものとなることを、ここでは示しているのです。幼子イエスが隠れて暮らした洞窟の上に建てられている教会がエジプトにあります。聖セルジウス教会で、エジプトで最古のコプト教会の一つで、外に出るとピラミッドが見えるそうです。神の独り子がこの世に生まれてくださったのに、人々の不信仰によって、神の子はエジプトに追われていきました。しかしそれは、私たちがその罪から解放されて、救われるためだったのです。

12月6日(日)説教要約マタイによる福音書13章53~58節「受け入れられない主」

 本日からアドベント第二週に入ります。今週のキャンドルは天使のキャンドルです。天使は、今お生まれになったキリストが私たちに「平和」をもたらされた事を告げたことから、「平和のキャンドル」とも言われています。今週は、平和のために、主にあって、私たちの出来る事は何かを思いながら、祈りのうちにアドベント第二週を過ごしましょう。
 主イエスはガリラヤのカファルナウムを、その活動の拠点とされました。そこで、主イエスは「天の御国」についての七つのたとえ――種蒔き、毒麦、からし種、パン種、隠された宝、良い真珠、地引き網のたとえを語られ、その教えについては、弟子たちだけに語られるようになっていました。それぞれのたとえを通して、天の御国に関する様々な面を教えてくださっているのです。それから主イエスはカファルナウムを去り、故郷のナザレへと帰られました。この時、主イエスの噂は故郷のナザレにも伝わっていたようです。主イエスが故郷のナザレに帰ったある安息日にも、その日のトーラー(創世記から申命記)を主イエスが朗読され、説教をされました。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていたとあります。イエスを幼い時から知っていた人びとは、主イエスの語られるその神的な知恵にも、超自然的な力にもただただ驚くばかりでした。彼らは、人間イエスを知っていましたが、それから一歩進んで、信仰によって主イエスを知る、ということまではできず、人々はイエスにつまずいたのでした。主イエスが郷里ナザレで受け入れられなかったことは、ユグヤ民族が彼をメシアとして認めなかったことの象徴的出来事と言えます。ヨハネは福音書でそれをこう書き残しています。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(1:11-12)」
クリスマスまでのアドベントの間は、この一年間の罪を悔い改めて、心の備えをする期間です。共に、御言葉に聞き、自分自身が主イエスを確かにわが主として信じているだろうか。また、主イエス・キリストの側に私は立っているかどうか、点検しつつ、軌道修正をしながら、この一週間も祈りのうちに過ごしていきたいと思います。

11月22日(日)説教要約 マタイによる福音書25章31~46節「最も小さい者」

 本日は収穫感謝合同礼拝として、教会学校の生徒たちと一緒に、秋の収穫の時に、神様が天地万物をお創り下さったことへの感謝と共に、その中で、たくさんの食べ物を実らせてくださって、与えて下さった恵みに感謝して、一緒に神様に礼拝をささげます。教会で収穫感謝の礼拝を捧げるようになったことの一つは、信教の自由を求めてアメリカに渡ったピューリタン(清教徒)を、ネイティブアメリカンが助けた事で収穫が与えられ、その事を感謝して礼拝し、その後、そのネイティブアメリカンを招いてお祝いしました。1864年、アメリカではこの出来事を記念して11月第4木曜日を祝日に定めました。教会では11月第3日曜日、または第4日曜日を収穫感謝の日として、野菜や果物を教会に持って集り、祭壇にささげて礼拝を守ります。
 さて、今日の聖書のお話しは、最後の審判のお話しです。イエス様はお弟子さんたちと一緒にいる時に、たくさんの事を教えてくださいました。ある人々は、ただ、信仰によって、困っている人々を助けたのですが、それは、実はイエス様にしてくれた事と同じなのですよ、と言っておられるのです。「最も小さい者」とは、貧しい人々、さまざまな困難の中にある人、社会的に弱い立場にある人たちのことです。しかも、信仰のゆえに財産を奪われたり、牢屋に入れられたりした人のことをさしています。ただし、このように人を助ける事が、神様の祝福の条件ではありません。それをしないと祝福されない、というのではなく、知らずに人に親切にして助けてあげた事、それを神様は見ていてくださっていて、祝福してくださるのだ、と言っておられるのです。なぜなら、良い心から良い行動が出るし、良い心から良い言葉が出るからです。それを聖書では、「信仰の実」と言っています。
 今日は収穫感謝礼拝と共に、礼拝後すぐに児童祝福式があります。こどもはこの世にあっては、守られるべき、弱い存在です。つまり、「最も小さい者」の一人です。その子どもをイエス様はとても大切にされました。マルコによる福音書10章13~16節。この事に倣い、本日、礼拝後共に子どもたちの祝福をいたしましょう。

11月15日(日)説教要約 マタイによる福音書5章38~48節「救いの約束」

本日の聖書本文は、5章から7章に書き記されている山上の説教の一部分です。
1. 38~39節で主イエスは、犯罪の報復に対する新しい理解を教えられました。それは、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい、という事です。悪人からの個人的な暴力や、攻撃があったとしても、それについて復讐しないようにと言われました。しかし、ヨハネによる福音書18章22~23節を見ると、主イエスは、公的、法的な社会正義がかかっている事に対しては、抗議し、立証することを禁じてはいません。あくまでも、悪に悪で報いる、悪の連鎖反応を禁止しているのであって、悪によって正義が侵されている事を禁止しているのでは決してない事を正しく理解しなければなりません。
2.40~42節。ローマ人は公用のためにユダヤ人たちが私有財産として持っている馬や馬車を徴発―強制的に取り立てること―する権利を持っていました。そして持ち主は徴発されたものと共に1ミリオン行く義務があったのです。このように、強制徴収と強制労働をする権利がローマ人にはありました。しかし強要された1マイルではなく、二マイルを同行することによって、むしろ愛において報復を断ち切り、みずから進んで相手を助ける力強い精神を持つことができます。
3.43節以下。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」これは主イエス・キリストの命令です。その主イエスのみことばに従う時、祈る相手を憎むことが出来なくなる時があります。それは、祈る者の心を主が捕らえて下さり、祈りが祈る者に変化をもたらすからです。なぜなら、神様が祈る者を聖霊で満たして下さり、変えて下さるからです。祈りは、祈る者をキリストに似た者に変えることができるのです。すべての人を積極的に愛する生き方を主イエスは教えてくださいました。ここに現れている神様は、どこまでも愛の神でした。その愛には差別はありません。この箇所の結論は、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい、ということです。そしてこの完全は愛に基づいてすべての人と接することを主は望んでおられるのです。

11月8日(日)説教要約 マタイによる福音書3章7~12節「神の民の選び」

 主イエスの宣教が始まる前に、イザヤが預言した通りに、『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』と荒れ野で叫ぶ者が現れました。洗礼者ヨハネです。メシアの到来近い時に、ユダヤ人の心に「主の道」を備えるべきこと、すなわち「悔い改め」に導いていました。その結果、多くの人々が、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに洗礼を受けに来て罪を告白し、悔い改めて、洗礼を受けたのです。それを知ったファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢来ましたが、彼らに対して、ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」と厳しいことばを発しています。また、全能の創造者である神は、全くアブラハムと血のつながりのない者たちを新しく起こして、真の「アブラハムの子孫」とすることがおできになると警告しています。真のアブラハムの子孫とは、神様の前にへりくだって、悔い改める者のこと、真の神の民ことです。しかし選民意識の強くなっていたユダヤ人にはできないことでした。
 確かに、裁きの日には、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれ」ます。しかし、キリストは、どんなに悪いことをしていても、その人が悔い改めて悪から立ち返ろうとするなら、あわれみを豊かに施してくださるお方です。そしてまさにこの救いのために、キリストが来られたのです。さばきのためではありません。またヨハネは、メシアの先駆者として今自分がここにいるのだと説明しています。そしてその方は、わたしよりも優れておられ、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになると告げました。
 バプテスマのヨハネは最後に12節で最後の大審判の場面をたとえて、警告を与え、人々に悔い改めを迫りました。それはとりもなおさず、集められた人々を神の民とするためでした。

11月1日(日)説教要約 ヨハネの黙示録21章1~4節「新しい天と地」

本日の聖書箇所には3つの事柄が記されています。第一に、新しい天と新しい地が現れます。第二に、「共に」というキーワードが出てきます。神が共にいるため。第三は、「涙をことごとくぬぐい取ってくださる」この世では悲しい事苦しい事があっても、神様はその人の目から涙をことごとくぬぐい取って下さるという約束です。
第一番目。1節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」ここで使われている「新しい」は(カイノス)というギリシャ語です。これは、質的に新しい「新鮮な」という意味で、時間が経っても変わらない、そういう新しさなのです。つまり、「新しい天と新しい地」は、全く新しい存在のものを表しているのです。つまり、これは「今の世」に対する「来るべき世」なのです。2節「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」全てが新しくなるから、都エルサレムも新しくされるのです。神様がお創り下さった元の創造の状態に回復するということです。新しいエルサレムとは、天のエルサレムであり、神の平和が支配する上なるエルサレムが約束されているのです。
第二番目は、「共に」というキーワード。神が共にいるため、でした。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」神様は人間をとても大切にしておられます。そしてここに人間が造られた目的があります。それは、神様が人とともに住み、人がその民となる、ということです。永遠のいのち、というのは、実は、神様との結びつくことで可能となります。神様との交わりが大切なのです。罪ある状態の私たちは、神様と交わる事は出来ません。しかし、イエス・キリストが地上に現われてくださいました。人となられた神様の独り子は、十字架に架けられる事で、私たちの罪が赦される道を開いて下さいました。私たちはただイエス様を信じるだけで良いのです。
第三番目は、神様はその人の目から涙をことごとくぬぐい取って下さる、という約束です。4節「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」死は「最後の敵」だとIコリ15章26節にあります。死はアダムの罪の結果として人間に与えられてしまいました。しかし人間にとって最も恐るべきものである「死」が滅ぼされ、新天新地には死は存在しなくなるのです。「最初のものは過ぎ去ったからである」この世のものは過ぎ去っていきます。だから、人間の罪から来た呪いである「死、悲しみ、叫び、苦しみ」それらがすべてなくなり、神様はその人の目から涙をことごとくぬぐい取って下さる、と約束してくださいました。新しい天と地には完全な回復があります。

9月6日(日)説教要約 ヨハネによる福音書8章12~20節「新しい人間」

 主イエスは、仮庵の祭りで行われるギボンの泉からエルサレム神殿の祭壇まで水が運ばれる行事を見て、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と叫ばれ、イエスを信じた者には聖霊が注がれて、その霊的な渇きが癒される事を語りました。
 次に姦淫の現場で捕らえられた女には罪の許しが宣言され、罪許された後からは、罪を犯さない生活をするようにと言われ、光の中を歩むようにと言われました。そして、婦人の庭の献金箱の近くで照らされるライト、エルサレム中を照らすライトのある場所で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と話され、主イエスに従う者には命の光が与えられると話されました。そして、「わたしはある」つまりイエスが神の子である事、救い主キリストであることをはっきりと語られました。その言葉に、ファリサイ派の人々は異議申し立てました。当時のユダヤ人にとって、肉に従って、その当時の一般常識をもって聖書に書かれていることを判断すると、目の前にいる青年イエスはとてもメシアとは言えないのだ、と判断したのです。しかし、ファリサイ派の人々の攻撃に対しても、主イエスはだれをも裁かないと言われます。そしてもし裁いたとしても、その裁きは真実であると言われました。
 ヨハネ1章9節以下では、まことの光であるイエス・キリストが来られ、その名を信じた者には神の子となる力を与えてくださると言います。私たちの力ではできないことも、イエスを信じた時、聖霊なる神様が、私たちを導いてキリストに従う事が出来るようにして下さるのです。そのような憐れみに満ちた主イエスを信じて、生きた水をいただいて聖霊に満たされ、命の光である主に従って、新しく霊に従う人として、これからも歩んで行きたいと思います。

8月30日(日)説教要約 ヨハネによる福音書8章1~11節「霊に従う生き方」

 主イエスが、神殿の中で座って教えておられた時、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と聞きました。主イエスは、彼らの魂の状態と、ユダヤの律法にもローマの法律にも抵触させようとするその魂胆を見抜いておられましたので、彼らの質問には答えずに、かがみ込み、指で地面に何か書き始められました。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」主イエスは決して律法を無効にはされません。律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために来られました(マタイ5:17)。
 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられました。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残ったのです。彼らはみな熱心なユダヤ教徒でした。律法を覚えていて、守ってきました。その律法によって、実は心の中にある思い、霊的なものを知った時、実は自分がいかに罪深いものであるのかを知るようになるのです。(ローマ書7章12~13節)
 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」この世にあって、唯一人を罪に定めて裁くことができるお方である主イエス・キリストが、わたしもあなたを罪に定めないと言われたのです。ここに神の恵みが示されました。しかしそれで終わりではありません。罪許されて罪から離れた女性は、これからは神の恵みの中で生きていく時、罪から遠ざかり、聖霊の導きにしたがって新しい人生を歩み始めるのです。その歩みは、いつも共にいて下さる主と共に歩む道であり、聖霊の導きのうちに生きる、霊に従う生き方なのです。そしてそれこそが、主にある勝利の道なのです。

8月16日(日)説教要約 ヨハネによる福音書7章1~17節「信仰による勝利」

 主イエスは、エルサレムで安息日に病気を癒されたため、律法を破る者だと、ユダヤ人指導者たちから命を狙われるようになっていました。ときに、仮庵祭が近づいて、ユダヤ教徒の成人男子はエルサレムに上ることになっていました。イエスの兄弟たちがイエスに、ユダヤに行って公に行動するようにと勧めましたが、実は兄弟たちはこの時はまだイエスをキリストとは信じていませんでした。主イエスは、十字架につけられるために父なる神様によって定められた時(カイロス)がまだ来ていないと、エルサレムに上京する巡礼の一行には参加されませんでした。しかしその後、人目を避けて上って行かれましたが、エルサレムでは、ユダヤ人がイエスを捕まえようと探し回っていました。祭りも半ばになった頃、イエスは神殿の境内に上って教え始められ、ユダヤ人指導者たちとの論争を通して、ご自分の権威の根源はご自分を遣わされた父なる神にあるという真理を伝えました。さらに、ご自分の教えが神様から出たものであると認めることができるのは、真剣に神のみこころを行おうと願うものだけである、と言われました。
 主イエスの兄弟たちも、ユダヤ人指導者たちも、信仰熱心で、メシアが来られる事を熱望していましたが、肉の目線でしか物事を捕らえられず、目の前に神の子が現れてもそれに気づかず、悪魔の惑わしにすっかり取り込まれてしまっていたのです。しかしそれは、彼らだけの事ではないかもしれません。現代も、神様を愛する、主に従うと言いながら、実は主の御心に反することをしている事が私たちにはないでしょうか。ユダヤ人指導者たちは結局キリストを十字架に架けてしまいます。しかし、主イエスの兄弟たちは、主の十字架の死と復活によって目が開かれ、イエスが救い主キリストであることを知り、どんな迫害の中にあっても信じて、人々を救いの道に導く者となりました。
 ヨハネの手紙一5章1~5節には、イエスをキリストと信じる者は神から生まれたもので、その信仰により世に打ち勝つのだとあります。8月は日本基督教団では平和を考える月で、昨日は敗戦記念日でした。平和を守ることは、時にとても大変で困難です。しかしこの世の力がどんなに強くても、神から生まれた者はみな、世に打ち勝つのだと聖書は語ります。それはキリストがすでに世に勝たれた方であるからです。ですから私たちも、イエスは救い主キリストであると告白し、信仰を固く守って、キリストの力を受けて、信仰による本当の勝利をつかみ、それぞれの置かれたところで力強く平和を作り出す者として歩みましょう。
 

8月9日(日)説教要約 箴言9章1~10節「知恵の勧め」

 旧約聖書の知恵文学は、ヨブ記、詩編、箴言、コヘレトの書の4つを言います。その中の箴言の中心聖句は、1章7節の「主を恐れるこ とは知恵の始め」で、箴言全体を貫く標語です。箴言はダビデの子ソロモンが書いたものです。
 本日の聖書本文を見ていくと、知恵が神殿を建て、最良の食物とぶどう酒を用意して人々を招きます。そして、そのはしためは、高い所で呼びかけたとあります。イザヤ書40書9節「高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。」高い所から叫べば、町の全ての人に伝える事が出来ます。そのように、神様のご計画、福音を伝えるようにとはしためたちは遣わされました。このように、知恵ははしためを遣わして、人々を宴会に招きました。聖書では、神の国、天国への招きの比喩に、このように食事、宴会への招きを用いることがよくあります。
 「浅はかな者」「意志の弱い者」は、わたし(知恵)のところに来て食事をしなさい。その食事をすれば、浅はかさ、意志の弱さを捨て、神の祝福による命を得て、人生における確かな分別の道を進むことができるだろう、と伝えるのです。また不遜な者、自己中心的で傲慢な人物に対して、知恵による諭しをしても侮られるだけであり、神に逆らう者を戒めても、自分が傷を負うだけだから、そういった人物には関わることのないようにと教えています。しかし、知恵があり、神に従う者は、教えを受ければさらに知恵と義を獲得するでしょう。
 10節「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」箴言1章7節が、ここでもう一度、強調されています。そして同じように、聖なる方を知ることは、その信仰生活のもとになるのです。かつてのイスラエルの民は、この主を畏れる事を忘れて、知恵を無くしました。また、聖なる方を忘れ、命に至る道がなんであるのかという分別が出来なくなってしまい、その結果、バビロン帝国に滅ぼされ、奴隷として捕まっていき、つらく厳しい捕囚生活をすることになってしまったのでした。だから、イスラエルの若者たちに対して、知恵の書、箴言を伝えたのです。
 また、知恵は人から教えられるものですが、一度身についた知恵は、自分自身のものとなります。しかし、これと同じように、もし不遜であり続けた時、その罪の報いは、自分自身に降りかかるのです。つまり、「罪の報いは死」というユダヤ教の基本的な考え方にあるように、不遜であることの代償として、命を捨てなければならない。人生の半ばで倒れるであろうと警告するのです。これは、バビロン捕囚を経験したイスラエル人の教えではありますが、今にも続く人間の定めだと思います。
 箴言は、私たちに知恵をもって生きる事を勧めています。「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」私たちは、今も生きて働かれる主イエス・キリストを信じています。御言葉を通して、主を知るようになりました。キリストに出会いました。そして、これからも、畏敬の念をもって主に仕え、みことばに従って、知恵をもって生きる者となりたいと思います。

8月2日(日)説教要約 ローマの信徒への手紙14章13~23節「神の国・平和」

 日本基督教団では8月第一主日は平和を祈る礼拝として守ります。第二次世界大戦の時、政府によって宗教団体法が制定され、日本にある全てのプロテスタント教会が合わされて日本基督教団が成立しました。教会の合同が、不思議な神の摂理の中で、国策として実現しました。しかし政府からの要請を受けて、多くの教会は戦争の協力をしました。戦争が終わって組織的に脱退した教団もありましたが、日本基督教団は存続しました。1966年10月第14回日本基督教団の総会において、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」いわゆる「戦責告白」が作られました。戦後20年経って「教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。」と宣言したのでした。そして敗戦の月である8月を、日本基督教団の平和を考える月とし、第一日曜日を平和聖日礼拝と定めました。
 ローマの信徒への手紙14では、キリスト者としての生き方が説明され、特に主にある兄弟姉妹をつまずかせない事が大切だと言っています。当時のローマ教会で、市場で売られている肉を食べるか食べないかで問題が生じていました。パウロの言う「信仰の弱い人」とは、律法にある通りに、汚れた動物を食べない人、また、偶像に供えられた肉を食べない人です。彼らはこのような事を気にしてつまずきやすい人であるという点で「信仰の弱い人」でした。一方、そのようなことは気にしないで何でも食べる人の事を「信仰の強い人」と言っています。パウロ自身は、食べ物はそれ自体で汚れているものは何一つなく、ただ汚れていると思う人にだけ汚れていると、主イエスによって確信していました。主イエスは、マタイ15章11節で「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」と言われている通りです。パウロは、キリストにある教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないと言っているのです。この原則はきわめて重要であって、教会における平和と一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって守られるものなのだと言っているのです。なぜなら、神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びだからです。そして、信仰者として固い確信、信仰をもって生きるべきだと語ります。
戦時中の教会は、信仰の確信に立つことなく、国策に従いました。しかし、神様はその戦争を敗戦と言う形で終わらせられました。その時、教会は本心に立ち返って、神の元に帰る事が出来たのです。そして、その罪を悔い改めたのです。神様はそのような悔い改めと、砕かれた心を喜ばれ、許して下さいます。私たちはそのような立場に立って、明日の教会を目指して、作り上げなければなりません。そのことを確認するために、平和聖日礼拝が守られるのです。

7月19日(日)説教要約 ヨハネによる福音書5章19~30節「復活の希望」

 キリスト教の神は唯一の神でありますが、「父」「子」「聖霊」の三つが一つの神であるとする三位一体の教理が大きな特徴です。本日の聖書本文では、主イエスがその中の「父」と「子」の関係について語られました。
 ①19節 子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。②19節 父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。③20節 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。④21節 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。⑤22節 父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
 父なる神が御子を愛しておられ、御子は父に完全に服従しておられます。御子は父なる神の近くにおられたので、父なる神のみこころを完全に知って、その御業を完全に成し遂げる事が出来るのです。そして御子は父なる神の愛のうちにおられるので、その活動のすべてにおいて、父なる神の愛を現わしておられます。その御子に、父なる神は、命を与えることも、また、裁きも、一切を任せておられるのです。
 24節で、主イエスは「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」と言われました。この移っているという言葉は、ギリシア語の完了形で、「すでに移ってしまっている」ということになります。ですから、主イエス・キリストのことばを聞いて、父なる神を信じる者は、神様がその人を死から命へとよみがえらせて、最後の裁きから救い出して下さるので、その人は、すでに死から命へと移ってしまっているのだと主イエスは話されました。そしてこの約束は、信仰を持つものへの祝福です。
 また、25節の「死んだ者」とは、「霊的に死んだ人」すなわち「罪人」で、主イエスのことばを聞いて信じる者は、ただちに、霊的に死んでいる罪の状態から救い出されて、永遠のいのちを与えられて、真に生きる者とされるのだと言われました。なぜなら、主イエスが、父なる神から、御子として、永遠のいのちを与えるようにとその権威を授けられているのは、それを信じる人々に命を分かち与えるためだからです。
 そして、人は誰でも終わりの日が来て、神の裁きの御座に立つようになります。その時に、イエスを信じる者には、すでに永遠の命が約束されているのだと約束してくださっています。
日本キリスト教団神戸平安教会
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