礼拝について
2017年3月5日 礼拝内容
2017年2月26日 礼拝内容
2017年2月19日 礼拝内容
2017年2月12日 礼拝内容
2017年2月5日 礼拝内容
2017年1月29日 礼拝内容
2017年1月22日 礼拝内容
2017年1月15日 礼拝内容
2017年1月8日 礼拝内容
2017年1月1日礼拝内容
2016年12月25日 礼拝内容
2016年12月18日 礼拝内容
2016年12月11日 礼拝内容
2016年12月4日 礼拝内容
2016年11月27日 礼拝内容
いよいよアドヴェントを迎えました。日本語では待降節、すなわち12月25日のクリスマスまでの間、救い主イエス様のご誕生を待ち望む期間です。第1週目は救い主イエス様の道備えをした洗礼者ヨハネの誕生予告を取り上げました。
ヨハネを生んだのは父ザカリアと母エリザベトです。ザカリアとエリザベトは二人とも祭司の家系で信仰深い人たちでした。彼らはずっと自分たちの子どもが授かるよう願っていましたが、その願いは叶わず、既に年を取ってしまいました。その折、ザカリアが祭司の務めをしたとき、神殿の祭壇の横に天使が現れ、エリザベトが男の子を産むことを預言しました。しかしザカリアは、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と疑いました。ザカリアの信仰がその時揺らぎました。天使はその信仰ゆえに裁かれ、しるしとして子が生まれるまでザカリアの口を閉ざし、話すことができないようにしました。
人は誰でも信仰が揺らぐ瞬間があるものです。逆境はあります。しかし天使がザカリアに伝えた使信は「喜び」であり、「楽しみ」でした(14節「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。」)。わたしたちに不幸を望む神様などおられるはずがありません。時に一見不幸と思われることの中に、神様はきっと「喜び」「楽しみ」の種をまいてくださっているに違いありません。洗礼者ヨハネの誕生も、はじめはザカリアの躓きから始まりました。しかし神様はその先に「喜び」、「楽しみ」を与えてくださったのです。
イエス様のご誕生を待ち望むアドヴェント、それは後に神様がお与えになる「喜び」「楽しみ」を待つということです。ザカリアのように疑うこともあるでしょう。しかしわたしたちは希望をもってアドヴェントの期間を過ごしましょう。
2016年11月20日 礼拝内容
2016年11月13日 礼拝内容
今日の箇所でサドカイ派という人々が登場します。サドカイ派とは、ユダヤ人の富裕階級で、宗教的指導者である祭司と密接な関係にありました。同じくユダヤ人の中にはファリサイ派という人々がいました。彼らもまたサドカイ派と同じく律法を厳しく順守する人々でした。ファリサイ派の人々は死後の生を信じていたのですが、サドカイ派の人々は律法に死後の生のことは記されていないとして、復活を信じていませんでした。そんなサドカイ派の人々がイエス様に、「1人の夫が7人の妻と結婚した場合、死んで後、復活すればだれの妻になるのですか」と問いました。イエス様はサドカイ派の人々に対し、25節で「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」、また27節で「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」と述べました。
サドカイ派の人々は、人間の生活に照らして復活のことを考えていました。しかしイエス様は、人間は死んだ後復活し、神様から新たな命、永遠の命が与えられると述べたかったのです。そして与えられた命の中で、新たな関係を持つ、すなわち神様と共に生き続けるのです。
これは人間が死して後、神様から与えられる新しい生であり、大いなる恵みです。今日の聖句はイエス様とサドカイ派との対話からそのことをわたしたちに伝えようとしています。わたしたちはその新しい生への希望を胸に今を生きるのです。
2016年11月6日 礼拝内容
わたしたちにとって「死」とは、「天に召される」という表現にもあるように、新たな旅立ちの時であると考えます。
今日の聖書個所は直接的には死後の世界があるとは書いていませんが、17節に「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」と、死者に対して神様がどのようになさるのかということをほのめかしています。
わたしたちは死に対して自分がどう思っているか、どう死に臨むかということを考えたときに、どのような準備が必要なのでしょうか。
今日の聖書個所は副題にありますように「信仰によって実現される約束」とあります。その約束とは、イエス様を復活させた神様が、私たちを一時的な死から再び復活させてくださるという約束です。イエス様の復活はキリスト者にとって何よりの希望です。
この手紙の著者パウロは17節で「死者に命を与え存在していないものを呼び出して存在させる神をアブラハムは信じ、」と書いています。神様への篤い信仰はアブラハムによって始まったと述べています。彼は死ぬまで神様への信仰を捨てませんでした。
わたしたちはいずれ死を迎えます。自分自身の死を考えたとき、どんな希望をもって生きるか、考える必要があるのではないかと思います。
2016年10月30日 礼拝内容
ルカ福音書は特に貧しい者に目を向けています。キリスト者の貧しさをどのようにとらえればよいのかという視点に立って、イエス様のみ言葉が書かれています。
初代教会ができた当初、教会員の財産は皆で共有され、お互いに支えあって生活していました。しかし、その後貧富の差が拡がっていったため、教会の中で金持ちと貧しい者とが対立するという事態が生じました。今日のたとえ話はそのような教会への戒めといってもよいでしょう。
現代においても先進国を中心に、貧富の差は激しくなっています。しかし、貧富の差は私たちが生まれるはるか昔からありました。したがって、福音書のメッセージは聖書が書かれた当時に限定されることではなく、今を生きるわたしたちにも当てはまります。つまり、聖書の福音は他人事として読むようには作られていません。
振り返って、わたしたちはどうでしょうか。確かに欲しいものがたくさんあるかもしれません。しかし、本当に大切なものは何でしょうか。それは私たちの命ではないでしょうか。いくら財産に恵まれていても命がなければ無意味ではないでしょうか。わたしたちの命は神様から与えられたものです。今日の聖句はいくら作物が豊作だといって喜んでいても、神様から頂いている命をないがしろにしてしまっては無意味であると言っているのです。
キリスト者として最も価値を置かなくてはならないものは何なのでしょうか。また、「神の前に豊かになる」とはどういうことなのでしょうか。その価値観が今日の箇所で問われているのです。
2016年10月23日 礼拝内容
イエス様は婚宴のたとえを用いて、当時のイエス様に対立する祭司、ファリサイ人、律法学者、長老たちが神様に対してどんな態度をとっているかということを説明されました。イエス様に対立するこれらの人々はそもそもイエス様が救い主であり、神の子であるということを否定しています。今日の聖書個所の前後を読んでみると、イエス様の語られるみ言葉を聞いてイエス様を殺害しようと目論む人々も少なくありませんでした。イエス様は常にそのような危機にありながら、人々にみ言葉を語られたのでした。
今日のたとえでは、王は神様、家来は旧約聖書の預言者、そして王子はイエス様を指しています。預言者は新たな救い主の到来を預言しました。しかしイスラエル民族はそれを認めず、挙句の果てには預言者を殺害することもしばしばありました。今日の箇所では「婚宴の招待のために使いを送った家来たちが無視され、殺害されたということを知り、王は怒りのあまりそれらの人々とその町を滅ぼした」という表現で示しています。
その後、王は見かけた者をだれでも婚宴に招待しましたが、招きに応じて出席した人の中に一人、礼服を着ていない人がいました。王の命令により、その人は手足を縛られ、暗闇に放り出されました。礼服とは何か、それはイエス様をお迎えし信じるという姿勢を示していると思います。神様に招かれ、教会に集っても、イエス様への信仰がなければ無意味であることを礼服のたとえで示しています。私たちキリスト者も信仰という礼服を着ているでしょうか。礼服のたとえはキリスト者の信仰ないしは倫理を問うています。今一度わたしたちの信仰を確かめましょう。そのためには、イエス様の救いの業を信じているか、神様に委ねて生きているか、そして祈りをもって生きているかをもう一度問い直してみましょう。
2016年10月16日 礼拝内容
2016年10月9日 礼拝内容
「ヘブライ人への手紙」のキーワードは「大祭司」です。大祭司は祭司たちのトップに立ち、彼のみが至聖所と呼ばれる神殿の中心となる建物に入ることができました。大きな罪の償いの儀式では、大祭司はこの至聖所に入ってイスラエル民族の罪を神様に赦してもらうために祈りをささげました。大祭司はイスラエル民族を宗教面において一つに束ねる重要な役割を果たしていました。
旧約聖書における大祭司のこの役割は、新約聖書ではイエス・キリストが担われました。旧約聖書の時代、イスラエル民族は牛や羊を屠り、肉や血を祭壇にささげることにより、神様に罪の赦しを求めました。同様にイエス様も人間の犯した罪を神様に赦していただくために自ら十字架に架かられ、血を流されました。イエス様は十字架上での死をもってご自身の身体を神様にささげ、人間と神様との和解のために犠牲となられました。それゆえ、イエス様は人間のための「大祭司」になられたと言えます。
このイエス様の犠牲による罪の赦しとその恵みは、今を生きるわたしたちキリスト者にも及びます。イエス様はこれからもわたしたちの罪の赦しのために働かれます。「ヘブライ人への手紙」はまさにこのことを強調したいがために書かれた手紙なのです。
2016年10月2日 礼拝内容
2016年9月25日 礼拝内容
パウロは今日の聖書個所で、キリスト者としての生き方について書いています。とりわけ愛を持って人々と接することを強調しています。貧しい人々をもてなすこと、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くこと、復讐は神に委ねること、できればすべての人と平和に暮らすことなどが述べられています。これらは日常生活においてなかなかできることではありません。とりわけ喜ぶ人と共に喜ぶというのは、人間が本来持っている嫉妬心によって実行しにくいのが人間の性です。しかし、キリスト者としての生き方はそのようなものではありません。9節にもあるように、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れてはなりません」とあります。偽りの愛とは自分をよく見せようとする偽善にほかなりません。では本当の愛とは何か、それは兄弟愛です。10節の兄弟愛というのは、11節にあるように「霊に燃えて、主に仕える」ことによって実現するものです。つまり愛は神の恵みによるものです。本当の愛は神様から与えられるものなのです。そのために私たちは祈り、神の愛が与えられることを求めます。キリスト教的生活の規範とは、このように祈りによって神様からの恵みをいただいて生きることなのです。
2016年9月18日 礼拝内容
今日の聖書個所は、パウロが割礼を基準にして真の信仰とは何かを問うています。割礼は生後8日目に受けるもので、本来は神様によって選ばれたことを確認するために行われたものでした。しかし、いつの間にか割礼というものが形だけのものになり、その本来の意味を失っていました。イエス様も公生涯において、ユダヤ教の形骸化について強く指摘しています。パウロは、神様への信仰は割礼といった形だけによるのでなく、キリストへの信仰によって義とされる(正しいと認められる)と述べています。パウロは律法学者としてエリートコースを歩んでいました。しかし、イエス・キリストに出会うことによって回心しました。イエス・キリストに出会ったパウロは、もはや律法といったこれまでの知識や経験を損失とみなし、それら過去のものが価値のないものとみています。それほど主イエス・キリストによる恵みは深いことを強調しているのです。それは信仰によって神様から与えられる義、復活の力です。パウロは苦しみにあって希望を求める者に何とかしてその恵みを分かち合いたいと願っていました。
2016年9月11日 礼拝内容
今日の聖書個所で、読み手である私たちは終わりの時、終末が訪れる時には様々な天変地異に遭遇し、人の裏切り、戦争などが起こり、そして偽預言者が現れると思い、大きな苦難が待っているというような恐ろしいイメージを持ちます。しかし、この聖句をよく読むと聖書はそう語っておらず、イエス様は「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」とおっしゃっています。
大事なのは14節の「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」の御言葉です。イエス様がこう語るように、終末とは神の国の完成を意味しています。そしてこの神の国の完成と同時にイエス様が再びこの世に来られるのです。私たちキリスト者はひたすら礼拝し、祈り、賛美することにより、神様から離れず「最後まで耐え忍び」、生涯を全うする姿勢を求められます。それにより神の国が完成したとき、「私たちは復活し、イエス様と出会うことができる」と聖書に書かれています。
聖書は「終末とは絶望の時ではなく、キリスト者にとって希望の始まりである」と伝えています。
2016年9月4日 礼拝内容
今日の聖書個所では、イエス様は断食、そしてブドウ酒を入れる革袋について語っています。
断食はユダヤ人にとって本来悔い改め、悲しみを表す行為です。またファリサイ人は週2回ほど断食をしていました。イエス様を見張っていたユダヤ人たちはイエス様の弟子たちが断食しないことに対して批判しました。この批判に対し、イエス様は「花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」と反論しました。この花婿はイエス様を指しており、やがてご自分が十字架に架けられ、死なれることを示しています。そして弟子たちはこれまでの古い生き方ではなく、イエス様と一緒に新しい人生を歩んでいく、ということを古い革袋と新しい革袋のたとえで語っています。
断食はあくまでも手段であって、目的ではないということを読み取ることができます。決してイエス様は断食を批判しているのではありません。イエス様ご自身も四十日もの間断食され、悪魔の誘惑と闘われた経験を持っておられます。ただ、イエス様は形骸化し、人に見せびらかす目的と化しているユダヤ人の断食等に疑問符を投げかけています。
わたしたちも人々に自分の正しさを見せびらかしたくなります。そのような傲慢に陥りがちです。反対に謙虚に生きる姿勢とは何でしょうか。聖書のみ言葉によって傲慢という誘惑を戒め、日々心新たに私たちもイエス様と共に生きて行きましょう。
2016年8月28日 礼拝内容
イエス様がサマリアとガリラヤの間を通っていた時のことです。ある村でイエス様は十人の重い皮膚病を患っている人を癒しました。そしてその十人は祭司のもとへと行き、イエス様によって完全に皮膚病が癒されたことを確認しました。その後、イエス様のもとへと戻り、神を賛美しイエス様にひれ伏したのは十人のうちたった一人でした。残りの九人はどうしたのでしょうか。人間が恩を忘れやすいということを感じさせます。
それとは対照的に、イエス様のもとへと戻ってきたこの一人の人間には、大いなる信仰を見ることができます。信仰を得ることは、人生を覆すような出来事だったと思います。それは、その人がイエス様の前にへりくだり、大声で神を賛美した姿によってはっきりとあらわされています。
わたしたちはイエス様がなされたような奇跡を目の当たりにすることは難しいです。しかし、神様は信仰をお与えくださるのです。それは良い意味で人生における大事件だといえるでしょう。イエス様の奇跡はわたしたちに神様への信仰をお与えくださることによって今もなお続いているのです。
わたしたちはこの与えられた奇跡、すなわち与えられた信仰によってこの癒された人のようにへりくだり、神にひれ伏し、賛美し続けるのです。
2016年8月21日 礼拝内容
2016年8月14日 礼拝内容
2016年8月7日 礼拝内容
今日の聖書個所でイエス様は「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」と言っています。このみ言葉は、イエス様の他の教えと比べた時に意外だと思うでしょう。このみ言葉はイエス様を前にして人間がどう決断するか、という生き方が問われています。イエス様を拒絶するか、それとも受け入れるかという決断であり、拒絶する者には裁きの火となり、受け入れる者には清めの火となります。分裂とはこの二者が現れることを指しています。
今日のみ言葉ではイエス様を「受け入れる」ことがポイントです。「受け入れる」とは決して半ば強制的にキリスト教徒となり、他宗教を捨てなければならないという排他的なメッセージではありません。初代教会は他国家、他宗教による迫害を受けていました。キリスト者であると理由で家族、親類といった親しい関係が引き裂かれることも頻繁にあったのです。今日の聖書個所では著者ルカがその迫害に耐える勇気を持つことを暗に訴えています。現代の日本では幸い信教の自由があります。したがって特定の宗教への迫害は少ないでしょう。しかしそんな日本人にもイエス様の前では決断を求められます。それは人間の罪を許すために、神と人間との和解のために血を流されたイエス様を「受け入れる」ことができるか否かです。この決断が現在はもとより、終わりの時、イエス様が再びこの世にやってくる終末の時に私たちに問われるのです。
平和を実現することは人類の永遠のテーマであると思います。しかし現実的には未だに紛争や殺戮が絶えません。平和のために必要なのは文化的、宗教的背景の異なる者同士がお互いを「受け入れあう」ということではないでしょうか。一つの宗教にあまりに執着して排他的な心を持つことが争いにつながるのではないでしょうか。今日の聖書個所は私たちの生き方が問われ、かつ本当の平和とは何かを深く考えさせられる個所であると思います。
2016年7月31日 礼拝内容
今日の聖書個所は幸いと不幸について述べられています。
私たちは生きている間に様々な幸いと不幸を経験します。そして幸いと不幸は時間的に長く続くこともあれば、交互に細切れにやってくるときもあります。また幸いと不幸の程度も様々です。皆さんは今幸いでしょうか。
イエス様は「貧しい人々、飢えている人々、泣いている人は幸いであり、満たされている者、笑っている人、富んでいる人は不幸だ」と言っています。
これは初代教会の状況を見たルカ福音書の著者の思いも込められています。初代教会は特に迫害の真っただ中にあって、苦しい状況に追い込まれていました。迫害によって困窮、悲しみの中にある人々を励ますためにこのイエス様のみ言葉が書かれました。しかし、このみ言葉は初代教会の人々のみに向けられたものではなく、現代を生きる私たちにも活きています。
日本人である私たちも迫害こそありませんが、何らかの不幸を経験します。逆境の中にあるとき、試練の中にいるとき、聖書を手に取り、このみ言葉を読んでいただきたいと思います。これまで数えきれない人々が、このみ言葉によって救われました。皆さんもこのみ言葉により、必ずやイエス様による励ましを得ることができるでしょう。
2016年7月24日 礼拝内容
今日の聖書個所はサブタイトルとして「不道徳な人々との交際」と記されており、「不道徳」とは一体何なのか、ということを説明しています。
パウロはここで、「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出ていかなければならないでしょう。わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」と言っています。
これはコリント教会における道徳的な退廃がおこっていたことから、パウロが切実な思いでこの手紙を書いたのではないかと思われます。
キリスト者(クリスチャン)いえば純粋で道徳的なイメージがあります。また、「穢れがあってはならない、誠実な者でなければならない」というような思いで信仰生活を送っておられる方々もおられるでしょう。しかし、それを他人に強制すると、教会はどうなるのでしょうか。世の人々は「キリスト教会には行いが正しい人しか入ることができない」と思って、誰も近づかなくなるでしょう。信仰生活は、清く振る舞うことではなく、この世においていかに生きるかを見出すことが本来の目的ではないでしょうか。
今日のパウロの言葉から学べることは、俗世に生きる私たちがいわゆる不道徳な人々と共にどのように生きて行くかということではないでしょうか。
聖書を通してそれを知り、キリスト者の道を歩み続けていきましょう。
2016年7月17日 礼拝内容
本聖書個所では、十人のおとめが登場しました。おとめたちが婚礼を迎えようとしたとき、花婿の到着が遅れて夜になったため、眠気に耐えかねて十人のおとめは眠ってしまいました。しかし、花婿が到着したとき、無事に婚礼に出席することができたのは十人のうち、賢い五人のおとめだけでした。残りの愚かな五人は出席することができませんでした。なぜならば、愚かなおとめたちはまさか花婿が遅れてくるとは思わなかったため、ともし火を絶やさないための油を用意していなかったのです。
今朝のイエス様のたとえ話は、予備の油を持っていたかどうかがおとめ達の運命の分かれ道となりました。「油を持っている」ということはどういう意味でしょうか。それは、主イエスへの信仰を持っていることを指し示しています。また「花婿」とは終末の時を意味しています。
弟子たちは、イエス様の昇天後、終末(終わりの時)がまもなくやってくると信じていたのです。しかしいつになっても終末の時は来なかったのです。このことが原因となって、初代教会の中で「はたして終末が本当にやってくるのだろうか」という疑問が起こりました。終末は、イエス様が昇天されて二千年が経過した現代でも未だ来ていません。
愚かなおとめというのは信仰においてしばしば傲慢になる信仰者の姿を示しています。これに対して賢いおとめというのは、自分が愚かで弱い人間であることを知っている謙虚な信仰者を示しています。それゆえに、賢いおとめは用心深く前もって予備の油を用意します。すなわち、常に主イエスを信じ、「目を覚まして」祈り、終わりの時を待ち続けるのです。
イエス様は傲慢になりがちな人間の愚かさと弱さを十分に解ってくださっているので、終わりの時を待つキリスト者としての生き方をこのたとえ話で教えてくださったのです。
2016年7月10日 礼拝内容
2016年7月3日礼拝内容
2016年6月26日 礼拝内容
2016年6月19日 礼拝内容
2016年6月12日 礼拝内容
2016年6月5日 礼拝内容
2016年5月29日 礼拝内容
2016年5月22日 礼拝内容
2016年5月15日礼拝内容
2016年5月8日 礼拝内容
2016年5月1日礼拝内容
2016年4月24日礼拝内容
人間は生まれると同時に死に向かって人生を歩み始めます。これは誰も逃れることのできない運命です。人間は不老不死を求めて今日まで様々な試みをしてきました。実際、医学が進歩し、科学が発達して少しずつ人間の寿命が延びています。
しかし、キリスト者は、永遠の命はすでに私たちの下にあると信じています。このことは主イエス・キリストの復活によって示されています。主イエスは一度十字架上で死なれましたが、三日後に復活されたと聖書には記されています。これはキリスト教における人間の死に対する考えかたです。
キリスト者にとって人生は死んで終わるのではありません。死の恐怖にさいなまれるとき、聖書から学び取れるメッセージ「再び主イエスが終わりの日にこの世に来られた時、主イエスと同じように死んだ者は復活し、神の御前で永遠に礼拝する。」に希望を抱いて生きていきます。
私たちもこの希望を少しでも多くの人と分かち合いたいと思います。
2016年4月17日礼拝内容
2016年4月10日 礼拝内容
2016年4月3日 礼拝内容
2016年3月27日 礼拝内容
2016年3月20日 礼拝内容
2016年3月13日 礼拝内容
2016年3月6日 礼拝内容
2016年2月28日礼拝内容
2016年2月21日 礼拝内容
2016年2月14日 礼拝内容
2016年2月7日 礼拝内容
2016年1月31日 礼拝内容
2016年1月24日 礼拝内容
2016年1月17日 礼拝内容
2016年1月10日 礼拝内容
2016年1月3日 礼拝内容
2015年12月27日 礼拝内容
2015年12月20日 礼拝内容
2015年12月13日礼拝内容
2015年12月6日 礼拝内容
2015年11月29日礼拝内容(アドベント)
2015年11月22日 礼拝内容(収穫感謝礼拝)
2015年11月15日 礼拝内容
2015年11月8日 礼拝内容
2015年11月1日 礼拝内容
2015年10月25日 礼拝内容
2015年10月18日 礼拝内容
2015年10月11日 礼拝内容
2015年10月4日 礼拝内容
2015年9月27日 礼拝内容
2015年9月20日 礼拝内容
2015年9月13日 礼拝内容
2015年9月6日 礼拝内容
2015年8月30日 礼拝内容
2015年8月23日 礼拝内容
2015年8月16日 礼拝内容
2015年8月9日 礼拝内容
2015年8月2日礼拝内容
2015年7月26日 礼拝内容
2015年7月19日礼拝内容
2015年7月12日礼拝内容
2015年7月5日礼拝内容
2015年6月28日礼拝内容
2015年6月21日礼拝内容
2015年6月14日礼拝内容
2015年6月7日礼拝内容
2015年5月31日礼拝内容
2015年5月24日礼拝内容~コピー
2015年5月17日礼拝内容
2015年5月10日礼拝内容
2015年5月3日礼拝内容
2015年4月26日礼拝内容
人間は誰しも死を経験します。そのため、わたしたちは死後の世界に関心を持ちます。仏教やヒンズー教、またイスラム教の一部の教派、古代ギリシア宗教などでは「輪廻転生」という概念があります。これは人間の現世での行いによって来世の運命が決定するという考え方です。この「輪廻転生」を信じる方は多くおられると思います。キリスト教国であるアメリカでさえ、人口の約25パーセントの人たちが信じているそうです。
しかし、もし輪廻転生があるとするならば、わたしたちは前世の行いを振り返り、反省しながら生きているでしょうか。大部分の人たちはそうではないと思います。前世の記憶を持っている人はほとんどいないと思います。つまり、死んでから人生を「やり直す」ことは不可能なのです。
本日の聖句で人間は「死ぬべきもの」であるが、「死なないものを着て」永遠に生きると述べています。キリスト教では人間の生は一度きりですが、神様の恵みによって全ての罪が赦されます。そして肉体的には死にますが、再び復活し、神様と共に永遠に生きると考えています。わたしはキリスト教に出会い、この考え方に触れ、ようやく自分自身の納得のいく死生観を持つことができたと思います。
わたしは輪廻転生を否定したいのではありません。キリスト教であれ、輪廻転生説であれ、神様によって与えられた今の人生を大切に生きることが大事なのだと思います。わたしはキリスト教との出会いを通してそのことを考えさせられました。
2015年4月19日礼拝内容
わたしたちは生きる目的が無ければ、人生が無味乾燥なものになります。目的が無ければ大抵の人は生きていることが空しいといった虚無感に襲われると思います。
イエス様の二人の弟子たちはイエス様がお亡くなりになった後、エマオという場所でイエス様のご受難と墓での遺体の消失についてあれこれ論じ合っていました。しかし、彼らは何ら答えを見出すことができず、空しく論じ合っているだけでした。
そんな時、イエス様が現れました。彼らは最初、イエス様だとわからなかったのですが、その人のモーセとすべての預言者に始まって、聖書全体に関する話を聞いているうちに心が熱くなり、ついにその人がイエス様であることに気が付いたのです。
今にも希望を失おうとしていた弟子たちの心が聖書のみ言葉によって燃えたように、忙しい生活の中で殺伐としているわたしたちの心にもイエス様は燃える火を与えてくださいます。わたしたちはイエス様が復活されたことに希望を持ち、これからもみ言葉を通して日々信仰を新たにしてくださるのです。
わたしたちにとってのエマオはまさに今生きている場所なのです。人生の希望を失いかけたとき、聖書を開き、み言葉に触れてみてはいかがでしょうか。イエス様は必ずや「燃える火」をお与えくださり、生きる目的をお与えくださると思います。
2015年4月12日礼拝内容
マグダラのマリアはマルコによる福音書16章9節によれば、イエス様に7つの悪霊を追い出していただいた女性です。7という数字はユダヤ人にとって完全数を表しています。また悪霊とは生きる苦しみを象徴しています。したがって、7つの悪霊取りつかれたマリアは人生において完膚なきまで苦しみに追いやられた人間の姿を現しています。イエス様との出会いが、マリアを生きる苦しみから解放してくださったのです。これをきっかけに、マリアは弟子たちと同様、イエス様と行動を共にしました。
しかし、イエス様が十字架上でお亡くなりイエス様が納められた墓が空になった時、マリアは悲しみに打ちひしがれました。マリアはイエス様の遺体が盗まれたと思いました。弟子たちと同様、イエス様の復活への信仰がマリアにはなかったのです。しかし、天使が現れてイエス様の復活を告知し、マリアが後ろを振り返ると、そこにはイエス様がいました。
マリアと同じように、わたしたちもイエス様への信仰に不安が生じることがあるかもしれません。イエス様はどこへ行ったのか、困難や苦しみにあってイエス様を見失うことがあると思います。しかし、マグダラのマリアのようにふと後ろ(過去)を振り返ってみると、これまで自身がイエス様によって生かされてきたことを感じるのではないでしょうか。わたしたちは決して自分の力のみで今日まで生きてきたのではありません。人間の生にはイエス様の導きがあるのです。
わたしたちもマグダラのマリアのように過去を振り返り、これまで何によって生かされてきたかを思い起こすことが大切なのではないでしょうか。
2015年4月5日礼拝内容
イースターおめでとうございます。
本日はマルコによる福音書を読みましたが、マルコ福音書ではイエス様が復活されても、なお弟子たちが不信仰であったことが書かれています。マルコによる福音書はイエス様の復活後のことについてあまり詳しく書かれていません。ただ、復活されたイエス様が弟子たちの食事中に現れ、彼らの不信仰をとがめられた後、宣教命令を下されたところで、マルコ福音書は終わっています。
マルコ福音書のように最後まで死と復活が信じられなかった弟子たちの姿は、現代のわたしたちの姿と酷似しているような気がいたします。
現代に生きるわたしたちは、聖書の中に、またキリスト者とのかかわりの中に、イエス様のみ言葉が活きるとき、復活されたイエス様が現れると信じたく思います。
福音書では復活されたイエス様がご自分から弟子たちに近づかれました。このようにイエス様自らわたしたち人間に近づかれて、救いを宣べ伝えてくださいます。神様の恵みとはそのようなものなのです。違う言い方をすると、わたしたち自身の力によって救いを得るのではなく、神様がわたしたちが恵みを得られるように道を備えてくださるのです。
今一度、イエス様が復活されたという事柄から神のみ業を思い起こしましょう。
2015年3月29日礼拝内容
わたしたちは受難週を迎えました。今一度イエス様のご受難について思い起こすひと時を持ちたいと思います。
イエス様はエルサレムにやってきました。弟子たちはユダヤ人の中心地であるエルサレムこそイエス様の宣教がクライマックスを迎える場所であると考え、期待に胸を膨らませていたと思います。しかし、弟子たちの期待は覆されてしまいました。なぜなら、イエス様はユダヤ人に捕らえられてしまったからです。その時、弟子たちはイエス様を置いて、皆一目散に逃げ去ってしまいました。
遡ると、イエス様のご受難が近づくにつれて、イエス様と弟子たちとの間に溝が深くなっていきました。それはほかならぬ弟子たちの無理解が原因であることは前回も述べたとおりです。そしてイエス様が捕らえられた時、その溝が最も深くなり弟子たちは完全にイエス様を裏切ることになりました。特にイエス様に一番近しかったペトロが、イエス様の予言通り3回「イエス様を知らない」と言ったのがその最たる例です。
しかし、イエス様は神様のみ心のままに御自分の運命に身を委ねました。とげのついた鞭で打たれ、皮膚がズタズタにされた後、無実の罪を負って十字架上で死なれました。それは弟子たち、そして私たちが救われるためでした。
わたしたちが苦難の中にあるとき、イエス様との間に溝ができるかもしれません。わが身を案じることに必死で、信仰から目をそむけてしまうことはないでしょうか。イエス様はそんな弱いわたしたちをも見捨てることはされません。イエス様が十字架につけられ死なれたのはほかならぬ弱きわたしたちへの救いのためなのです。わたしたち人間の弱さを誰よりもよく知っておられるのは、苦難を味わわれたイエス様なのです。
何気なくこのホームページを読んでおられる皆様にも無実の罪を負って亡くなられたイエス様の救いの業が働きかけます。ともにイエス様の救いの業に与かり、導きに身を委ねましょう。
2015年3月22日礼拝内容
イエス様はエルサレムへ向かう決意をされました。弟子たちはいよいよイエス様がイスラエル民族の中心地であるエルサレムにおいて、これから凱旋されるのだと希望に胸を膨らませてイエス様と行動を共にしました。しかし待っていたのはそのようなハッピーエンドではなく、むしろイエス様がこれからユダヤ人によって殺されるという残酷な運命でした。弟子たちはそんなイエス様の運命が理解できず、自分たちが少しでもイエス様と近くにいて権威をものにしようと躍起になっていました。
前回も申しましたが、弟子たちはイエス様の死が近づけば近づくほど、イエス様との距離が遠くなっていきます。イエス様がユダヤ人によって捕らえられた時、ペトロは3回イエス様を知らないと言いました。他の弟子たちもみなイエス様を置いて逃げ去りました。しかしイエス様はそんな弟子たちを恨んだり、呪ったりすることはありませんでした。イエス様はこれが神様の御心であり、弟子たちそして将来イエス様を信じる者が救われるために必要なことであると知っておられたからです。捕らえられる直前の夜、ゲッセマネでイエス様は神様の導きに委ねました。イエス様は抵抗することなくご自分の運命に従ったのです。
弟子たちの思いは私たち聖書の読者の思いと重なり合っています。弟子たちのイエス様への無理解はわたしたちにも当てはまるのです。本当にイエス様によってわたしたちの罪が贖われ、救われているのだろうか、本当に復活などあったのだろうか、とふと思うことはないでしょうか。何しろ2000年前の話です。疑いを持つのはもっともだと思います。弟子たちも同様にそのような疑いを持ったことでしょう。しかし聖書には、多くの弟子たちがイエス様の救いを証言しています。使徒言行録にもあるように、パウロを始め、ステファノ、ペトロらによる説教や証言など、例は数多くあります。現代においてもイエス様を信じる者たちが数えきれないほどいることも、イエス様の救いが働いている証拠です。
イエス様のご受難はただの災難ではなく、将来数多くの者を救うという神様の御心でした。弟子たちと同様、わたしたちもイエス様に対して無理解な部分はあります。しかし、神様の救いの業はいつの日かわたしたちの眼にも明らかになるでしょう。わたしたちは肉体的な死を避けることはできません。しかし、終わりの日に神様は私たちを復活させ、救いの業の意味を明らかにしてくださいます。たとえ今私たちが神様の救いの業を信じられなくとも、弟子たちと同様、やがて私たちにもその救いの業が明らかにされるのです。
2015年3月15日礼拝内容
イエス様はご自分が間もなく死に、復活するという予告をされた後に山に登られました。するとイエス様の衣が真っ白に輝き、モーセとエリヤが現れ、3人で語り合っていました。この光景を見た弟子たちは、イエス様のため、モーセのため、エリヤのために仮小屋を三つ建てましょうと提案しました。弟子たちはこのイエス様の変貌についてどう言えばよいかわからず、非常に恐れました。
モーセは律法を神様から授かった人物であり、エリヤは代表的な預言者です。この律法と預言者の代表者である二人とイエス様が語り合っているということは、彼らが対等な立場にいるということを表しています。つまり、イエス様の律法及び預言者に関する理解が正しいことを示しています。イエス様の律法と預言者に対する理解は、マタイによる福音書22章36節~40節に示されています。すなわち、「心をつくし、精神をつくし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な掟の一つである、第2もこれと同じように重要である、隣人を自分のように愛しなさい。律法と預言者はこの2つの掟に基づいている」というイエス様の御言葉です。つまり、「神と隣人に対する愛」こそが律法と預言者の最も伝えたいことなのだ、と述べておられるのです。
弟子たちはイエス様のお姿が光を帯びるさまを見て、「仮小屋を建てる」という提案をしました。これは神様の栄光かもしれない、と感じたのかもしれません。しかもモーセとエリヤという有名な人物がいる。この栄光がずっと続くようにと弟子たちが願ったのはもっともであると思います。しかし,仮小屋を建てるという提案が見当違いなものであることは明らかです。
イエス様のご受難が近づくにつれて、弟子たちとイエス様との距離が徐々に離れていきます。つまり、弟子たちの「イエス様への無理解」が顕著に表れるようになります。イエス様がエルサレムに入り、同胞であるユダヤ人に連行されたとき、弟子たちは一目散に逃げ去り、イエス様を見捨てるに至るのです。
これは何も弟子たちだけの問題なのではなく、わたしたち聖書の読み手にも当てはまる問題です。キリスト者は時に信仰に疑問を持つことがあります。また信仰につまずくことがあります。しかしそれは今日の聖句における弟子たちも同じでした。イエス様に対する無理解がキリスト者の信仰に疑いや迷いをもたらすのです。一番弟子であるペトロでさえ、3回もイエス様を知らないと言って裏切ったほどですから。
わたしたちは、神様の御業を全て知ることはできません。イエス様のご受難の意味を弟子たちが到底理解できなかったのと同じように。わたしたちに出来ることはひたすらに神様の御業に委ねることのみです。このご受難を覚える時、わたしたちは謙虚になり、計り知れぬほど奥深い神様の御業に思いを馳せ、わが身を御業に委ねましょう。
2015年3月8日礼拝内容
イエス様は十字架によるご受難をお受けになる前に、弟子たちに訪ねました。「あなたがたはわたしを何者だというのか。」と。ペトロは「あなたはメシアです。」と答えました。これは弟子たちのイエス様に対する信仰告白です。「メシア」とは、「救世主」という意味です。その直後、イエス様は間もなくご自身がまもなくお亡くなりになること、そして三日の後に復活することを予告しました。イエス様はご自分がメシアであるという前提で死と復活を告げ知らせることによって、人間への永遠なる救いの御業を、前もってわたしたち聖書の読み手に伝えようとしています。
イエス様のこの突然の予告を聞いたペトロは、イエス様をわきへお連れし、いさめました。ペトロはイエス様が早くにお亡くなりになり、しかも復活することなどありえないと思ったのでしょう。それに対しイエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と逆にいさめました。ペトロの思いはもっともであると思います。読み手であるわたしたちでさえペトロと同じような思いを持つと思います。わたしたちはペトロと同様、「人間のことを思っている」、つまり、「人間の常識の範囲内で物事を捉えようとする」視点に固執しているのです。イエス様はそのことに対していさめられたのです。
「神のことを思う」というのは、人間の常識では考えられないような出来事を受け入れる心構えであると思うのです。神様はときにわたしたちの想像のつかない方法で人々を導き、お救いくださることがしばしばあります。これまで何千年にもわたって、キリスト者はそのような予想もつかない神様の不思議なお働きを目の当たりにしてきました。それはキリスト者たちによる信仰書や証し、信仰告白などが書かれた膨大な書物と記録が残され、いまだに作られていることからも明らかです。イエス様の救いの御業は現代に至るまで確かに働いています。
わたしたちの思いは人間に向いているでしょうか、それとも神様に向いているでしょうか。そのことがわたしたちに問われているのです。
2015年3月1日礼拝内容
2015年2月22日礼拝内容
わたしたちキリスト者は教会での礼拝、祈祷会、集会など様々な教会行事を大切にします。確かにそのような教会行事に参加することは、神様への信仰を再確認するという意味で大事で、かつ重要です。
しかし、わたしたちは教会行事といった目に見えることのみに囚われていないでしょうか。教会の行事にさえ出席していれば、神様に近づけると思い込んでしまうことはないでしょうか。
信仰は教会行事のみではなく、普段の生活の中でこそ発揮されるべきだと思います。わたしたちは礼拝中には信仰に対する関心を持ちます。しかし、教会を出て日常生活に戻ると、信仰がどこかへ吹き飛んでしまうこともあります。そのような元の木阿弥な教会生活に意味はありません。
本日の聖句はそのような懸念を示すと同時に、信仰を一つの角度から説明しています。それは、キリストがわたしたちにとって「頭」である、ということです。人間にとって「頭」は最も重要な部分であって、イエス様は信仰における「頭」なのです。キリスト者が信仰を持つということは、切り離すことのできない、無くてはならない「頭」としてイエス様が支配されるということなのです。
教会から普段の日常生活に戻った時、わたしたちの信仰はしばしば動揺することがあります。しかし、イエス様は離れることなく共にいます。わたしたちキリスト者は決してイエス様を生活の中から切り離すことはできません。仕事・生活・信仰の全てをイエス様に委ねましょう。そうすれば必ずや神様がわたしたちを導き、守ってくださるでしょう。
2015年2月15日礼拝内容
パウロが活動していた頃のキリスト教教会には大きく2つのユダヤ人グループが存在していました。一つはヘブライ語を話すユダヤ人で、ヘブライストと呼ばれる人たち、もう一つはギリシア語を話すユダヤ人で、ヘレニストと呼ばれる人たちです。これら2つのグループは教会という組織ができていく過程で生じました。
ヘブライストは律法の遵守を重んじ、ヘレニストは律法にあまり縛られない比較的自由な活動をしていました。両者はこのような思想の相違から、しばしばお互いを非難し合っていました。パウロは手紙の中で、このような分派により教会が分裂しないように、自ら先頭に立って教会員の一致を勧告しました。
今日の聖句でパウロは文字すなわち律法の是非をめぐる無味乾燥な対立をするのはやめなさいと述べ、「霊に仕えなさい」と諭しています。霊は神様からいただくものであり、キリスト者は神様の霊によって生かされています。霊に仕えるということは、この霊を与えて下さる神様に感謝して生きるということです。このことは、4章15節で同じ信仰の霊を持つ者が「豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」と記されています。
わたしたちの「生」は神様への感謝に始まり、神様の感謝で終わるのではないでしょうか。それこそが、霊に仕えることの根本であると思うのです。
2015年2月8日礼拝内容
創世記に書かれているヤコブはイスラエル12部族の始祖として重要な人物でした。兄エサウからの逃亡の最中、ヤコブは神様からのメッセージを夢の中で受け取りました。その夢というのは「天から地上にまで達する階段が伸びていて、神の御使いたちがその階段を上り下りしているところを見ているヤコブの傍らに神様が立って、子孫の繁栄、神様による加護、約束の地への導きを約束された」というものでした。
そして、後にこれらの約束は成就されました。
神様からのメッセージというのは何時与えられるかわかりません。ヤコブのように夢の中で与えられるという珍しいケースもあるでしょう。しかし、わたしたちはイエス様のたとえ話から神様のメッセージを常に受け取ることができます。何故ならばイエス様のたとえ話は普段何気ない生活の一コマを題材にして、福音を告げ知らせているからです。
今一度、普段の生活を注意深く見つめましょう。そこには必ず神様のメッセージが隠されているはずです。
2015年2月1日礼拝内容
2015年1月25日礼拝内容
イエス様が故郷ナザレの会堂に来て預言者イザヤの巻物を読んだとき、「この聖書の言葉は今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されました。周囲にいた人々は救いがやってくるという言葉を聞き、大変喜びました。しかしイエス様は「自分の故郷では歓迎されないものだ」と言い人々を憤慨させ、ナザレから追い出されました。
本日の聖句は神様の救いの対象は誰なのかということを強調している物語です。イエス様は、故郷ナザレから追い出されてもなお異邦人への救いを訴えました。
私たちにとっては、洗礼を受けたキリスト者のみが救いの対象になっているのではありません。その考え方は傲慢であると思うのです。神様の救いは異邦人、つまり全世界のすべての人々に及びます。わたしたちがそのことに気が付いているか、それが重要なことなのです。イエス様をナザレから追い出した周囲の人々は果たしてそのことに気が付いたのでしょうか。
世界の平和のために必要なのは「寛容」なのではないでしょうか。その根拠は著者ルカが強調しているように、神様が全世界の人々に救いをもたらしてくださっていることです。全世界の人々と共に神様の救いにあずかり、分かち合い、平和に暮らせる社会が実現することを願ってやみません。
2015年1月18日礼拝内容
2015年1月11日礼拝内容
イザヤ書はいわゆる預言書ですが、バビロン捕囚のさなかに編纂されたと云われています。バビロン捕囚についての歴史的な記述は旧約聖書には直接書かれていませんが、イザヤ書には捕囚の身となったイスラエル民族の思い、信仰というものを見ることができます。
バビロン捕囚によって故郷を失ったイスラエル民族は自分の居場所をも失い、不安な日々を過ごしていました。イスラエル民族は自分の故郷にこそ心のよりどころがあると思っていました。しかし、イスラエル民族は捕囚民という立場を長く経験するにつれて、自分たちの故郷に戻りたいと切望していましたが、一方で本当に大切なものに気が付いたのです。それは自分たちの土地といったような目に見えるものだけではなく、目に見えないものへの信仰が何より自分たちを支えてくれているということに気が付いたのです。60年におよぶ苦しい捕囚生活の中で、本当に必要なものは何かということ、つまり神様を、改めて認識しました。
もしかしたら人間は危機的な状況にあった時、本当に必要な物は何かということを知るのかも知れません。本日の聖句は危機的状況の中で、世界と歴史を支配される神様を改めて見出したイザヤと呼ばれる信仰者のメッセージです。
2015年1月4日礼拝内容
本日は「慰めの神」という説教題ですが、皆さんにとって慰められる時というのはどんな時でしょうか。慰めというのは何のきっかけもなしにあるものではありません。慰めは何かつらいとき、苦しいときなどの後にやって来るものです。つまり、慰めと苦しみは表裏一体のもので、時差はあるもののセットでやってくるものです。
本日の聖句にもあるように、パウロは「わたしたちキリスト者が『キリストの苦しみ』にあずかっている」と述べています。「キリストの苦しみ」とは、周囲の人々に唾され、嘲られ、最後は十字架につけられたイエス様が被ったあの苦しみです。キリスト者はこの苦しみに思いをよせ、イエス様の受けられた苦しみが今を生きる私たちを救ってくださっていることに感謝しなければなりません。私たちはイエス・キリストの苦しみを分かち合うと同時に、神様による慰めが与えられているのです。これこそがキリスト者が教会という共同体に生きることの大切な意義なのだ、とパウロは述べています。
慰めを受けるということは、イエス様の苦しみを共に分かち合うことです。つまり、洗礼を受けるということは、キリスト者になってイエス様の苦しみを共に分かち合う覚悟を持つことなのです。
2014年12月28日礼拝内容
いよいよ年末になってまいりました。2014年教会員の皆様、1年間神戸平安教会を支えてくださり、ありがとうございました。
1年の締めくくりとして、礼拝とは何かということについてお話いたしました。
わたしたちキリスト者はイエス様の死によって罪から贖われた清い者であります。パウロはそのようなキリスト者を「聖なるいけにえ」と表現し、聖なるいけにえを神様に捧げなさいといっています。
先日テレビでコンビニエンスストアのサラダの製造過程についてとりあげられていました。その際の衛生管理は極めて徹底されていました。従業員の衛生はもちろんのこと、野菜を3回洗い、なおかつ異物混入が無いように金属探知機にかけるという徹底ぶりです。
わたしたちキリスト者も、いわばこのコンビニエンスストアのサラダのように誰もが安心して食べられる、受け入れられるような清め、罪からの贖いを享受しています。そして何より清められたわたしたちキリスト者が自分の持っているものすべてを捧げなさい、と述べています。
年末を迎えますが、改めて自分が罪から清められ救われた者であることに自信を持ち、自分の持てるものすべてを神様に捧げることを心に留め、来年もまた教会生活を歩んでまいりましょう。
2014年12月21日礼拝内容
いよいよクリスマスを迎えました。本日の聖句には羊飼いと天使が登場します。羊飼いは聖書が描いている時代においては、羊の世話が不衛生であるということもあり、低い身分であるとみなされました。羊飼いで想起する人物として、旧約聖書に登場するダビデを挙げることができます。後に一国の王となるダビデも、名もない頃は羊飼いでした。聖書の物語で大活躍する登場人物はほとんどといって良いほど不遇な時代を経験しています。ダビデはもちろんのことモーセやヨセフ、ソロモンなど、その生い立ちは不幸なものでした。しかし、彼らは神様の御手によって高く上げられ、民を導く者となりました。これは神様の恵みと救いの業によるものだと聖書は語っています。
新約聖書の特にルカによる福音書は、貧しい者、身分の低い者に対する救いが強調されています。本日の聖句においても、天使たちは羊飼いたちに対して、「あなたがたのために救い主がお生まれになった。(11節)。」と告げます。最初にお生まれになったイエス様と出会ったのは羊飼いたちでした。救い主を送ってくださった神様がまず目を向けられたのは羊飼いをはじめとする貧しい者、社会的に小さな立場にある者でした。
現代の日本においてもこうした貧しい者、社会的に小さくされた人々がいます。それはどのような人々でしょうか。わたしたちは思い起こさなくてはなりません。クリスマスのこの日、今を生きるわたしたちも、神様のその視点に学ばなくてはならないのです。
2014年12月14日礼拝内容
アドベントも3回目となりました。本日はマリアの賛歌をお読みいただきました。
今日の聖句は讃美歌21にもあるようにマニフィカートと呼ばれる部分です。マニフィカートはラテン語で「あがめる」という意味です。
マリアは救い主が自分に宿され、産むという天使の告知を受けました。そこでマリアは神を賛美するわけですが、マリアのその時の状況は最悪の状況でした。なぜなら、男を知ることなく子を産むということは姦淫の罪に問われる可能性があり、ユダヤ人の律法によれば死刑に値することです。マリアの夫ヨセフも同じくマリアの状況を見てさぞかし困惑したことでしょう。しかし、それでもマリアは神様を信じて賛美したのです。
それはマリアが神様への強い信頼があったこと、そして神様に仕える身として自分を捨て、自身のすべてを神様の御心に身を委ねたからです。神様はそんなマリアを見て憐れみ、イエスの誕生を見守ってくださいました。
わたしたちは神様に自分の全てを委ねているでしょうか。絶望的な状況にある時こそすべてを神様に委ねることの大切さをマリアの賛歌を通してわたしたちに教えています。クリスマスにはその教訓を確認する意味もあるのです。
2014年12月7日礼拝内容
本日の聖句は3人の占星術の学者が登場する場面です。
占いにはさまざまなものがあります。書店に行けば、さまざまな占いの本が陳列されています。
聖書によると、本来、占いは口寄せ(霊媒師)と同様、偶像礼拝であるとみなされ、忌み嫌うべきものとされています。しかし、特に旧約聖書によれば、国家に一大事が起こったとき、原因不明の災いが起こったとき、指導者の選出をするときなどに、よく「くじ引き」が行われていました。
新約聖書では占いに対する評価は低いようです。しかし、本日の聖句では3人の占星術の学者たちがひときわ光る星に導かれて、救い主である幼子イエスのところに来ることができました。これは星によって、つまり神様によって、導かれるという筋書きになっており、神様の導きというのは本当に不思議なものです。
私ごとですが、おみくじを引いたことがあります。そのおみくじには「神様の導きに従い、感謝して生きなさい。」と書かれていました。そのとき、私は「神様が私を確かに導いてくださっているのだ。」という思いを強く感じました。
わたしたちには、神様がどのような手段を用いて導いてくださるかは解りません。ひょっとすると、キリスト教とまったく関係がないものを用いて導いてくださることもあるのではないか、と思います。
2014年11月30日礼拝内容
いよいよアドベントに入ります。アドベントというのは日本語では待降節と言い、イエス・キリストの誕生を記念するクリスマスから数えて4週間前から始まります。このアドベントの期間中にクリスマスに向けてのいろいろな準備を行います。
旧約聖書の時代からイスラエル民族はずっとメシア(救い主)の再来、具体的に言えばダビデのような英雄的救世主の再来を心待ちにしていました。しかしながら、なかなか救世主が現れなかったので、その間様々な迫害や試練を受けてきました。そのような中で、ユダヤの人たちはイエスという救い主が現れることを知るのです。
本日の聖句はイエスがお生まれになるところです。マリヤは聖霊によってイエスを身ごもったと記されています。この福音書の著者はおそらく旧約聖書の創世記に記されている天地万物の創造の記述を意識してこの箇所を書いたものと思われます。なぜならば、創世記にも神様が万物を創造したと記しているからです。
イエスも同じく聖霊(神の霊)によってお生まれなったということは、神さまがわたしたちに「イエス・キリストへの信仰を持つように。」と言っていることを表しています。
人間誰しも苦しみや悲しみから逃れることはできません。多くの人々はそのような状況に陥った時、悲観するのみになりがちです。しかしながら、キリスト者はイエスの「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」の御言葉から、「イエスが共に重荷を負ってくださる。」と信じ、困難や危機を乗り越える力を与えられます。わたしたちは人間であるがゆえに自分の欲望のために他者を顧みず傷つけてしまうことが多々あります。これは罪にある状態と言えます。そして自分自身をも罪悪感のゆえに傷つけてしまうこともあります。
創世記において、人類最初の人間であるアダムとイブが神から「採ってはならない。」と命じられた知識の木の実を食べてしまった罪も欲望が原因です。その人間の罪をイエスはご自身の死によって償ってくださいます。これは、イエスが人間の罪を贖うために受難に遭われたことは神さまの最初からの御旨とも考えられます。
このように考えると、イエスの誕生は神様がわたしたちに賜ってくださった大きな愛に溢れる贈り物であるといえます。
2014年11月23日礼拝内容(収穫感謝礼拝)
今日は教会学校の子どもたちと大人と合同で収穫感謝礼拝を行い、主として子どもたちに向けてお話をしました。
わたしたちは自然の摂理についてどれほど関心を持っているでしょうか。普段、何気なく植物や生き物と触れ合っていませんか。また衣食住の恩恵を「いただきます。」という言葉だけで片付けてはいませんか。わたしたちは「いただきます。」という言葉の中にどれほどの気持ちを込めているでしょうか。
わたしたちは身近に生えている雑草を見たとき、聖書に書かれている言葉を思い起こします。27節にイエス様は「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」とおっしゃっています。
農作物を除けば、わたしたちが植物の種を蒔かずとも、自然に放っておいても植物は成長します。農業をされている方でさえ、食物の種を蒔き、水を与えることしかできません。その後の成長は気象条件や土質によって左右され、食する時期がくるまで、わたしたちはただ成長の過程を見守るしかないのです。
近年発展著しい科学でも、自然の営みはいまだに完全に解明されていません。わたしたちはここに生命の奥深さを感じ、同時に、わたしたちはその営みに神様の働きを見るのです。
イエス様の御言葉のとおり(28節)、「土はひとりでに実を結ばせる。」のです。わたしたちが衣食住に与かるということは、同時に神様の不思議な働きに与かるということです。その不思議な働きがわたしたちを養い続けてくれるのです。このように考えることで、わたしたちは必然的に「神様に感謝することが大切である。」と切に感じることができるのです。人それぞれが重荷を背負い、忙しい日々の中を生きています。わたしたちはそのような中にあってつい忘れがちな感謝の気持ちを今こそ思い出しましょう。
2014年11月16日礼拝内容
今回はパウロの手紙、ローマの信徒への手紙をとりあげたいと思います。
パウロの手紙と呼ばれるものは、すべてパウロが著者であると断定することは難しいです。しかし、著者がパウロであれ、もしくはそうでないとしても、非常に有意義な手紙であることは言うまでもありません。
パウロの手紙を読んでいますと、ローマの信徒たちはもちろんイエス様に対する信仰というものがあるのですが、まだ洗練されていないところがあります。全体的にはイエス様の言葉をよく噛みしめることなく信じている、というような気がします。今日の聖句もまさにその点を指摘しているような気がします。
確かにイエス様によってわたしたちの罪は許されたのであります。イエス様は体を張って、わたしたちがこれまで犯してきた悪いこと、人間が根源的に持つ悪の面(これを原罪といいます。)を永遠に許してくださることを約束してくださったのです。しかし、その論理を利用して「それなら何をやっても良い。」という考え方を持つ人たちがいたのです。ローマの教会は設立されてそんなに年月が経っておらず、その信徒たちもキリスト教徒としてこれから本格的に活動しようとした矢先のことでしたので、いまだ手探りの状況にあり、一体キリスト者とは何なのかということがわからなかったのが実情だったのではないでしょうか。
パウロはそのような発想やイエス様の教えの裏をかいた考え方に対し警鐘を鳴らしています。そこで、パウロは思い切って奴隷という言葉を用いました。具体的には罪の奴隷と、それに相対する義の奴隷です。そのどちらになるかという二者択一をローマの人たちに迫るのです。罪の奴隷とは先ほども申したように何をやっても許されるという短絡的な考え方を持つ人たちです。それに対して、義の奴隷とはそうではない人たちのことであります。義というのは「正しい」という意味です。つまり義の奴隷とは正しい人になることを意味します。この2つの対比をどう区別するか、基準があるのか、それは21節に書かれているように「今では恥ずかしいと思うもの。」です。
ところが人間は弱い者です。どのように頑張っても、どのように工夫しても恥ずかしいと思うことをしてしまいます。恥ずべきことと知らずに犯してしまうこともあります。これはやはり人生の中で経験を積み重ねていくしかありません。また人間の心は移ろい易く、流されやすいので、どうしても恥ずべき行為を行ってしまうことがあります。なぜ神様はこのような不完全な人間をおつくりになったのか、はなはだ疑問を抱くことがあります。
しかし、この恥ずかしいと思う行為を犯すことによって人間は謙虚になることができます。恥ずかしいと思う行為は人間にとって試練です。事実、そのような行為を行ったときには周囲からの批判や非難を避けて通ることはできません。しかし、わたしたちは不完全である限り、この試練から逃れることはできません。
罪の奴隷であるわたしたちは、神さまが人生において様々な火、つまり苦難・試練を経験させることによって清められ、やがては義の奴隷へといざなってくれます。パウロがローマ教会に向けて書いた手紙は、まさに神様によってローマ教会に与えられた火であり、この火によってローマ教会が清められていくのでした。罪の奴隷から義の奴隷へと、わたしたちの人生は神さまによってこれからも導いてくださいます。
2014年11月9日礼拝内容
2014年11月2日礼拝内容(永眠者記念礼拝)
毎週水曜日に行われている聖研祈祷会でもこのダニエル書をとりあげたことがあります。復習しますと、ダニエル書は紀元前2世紀のシリア王アンティオコス4世によるユダヤ教徒弾圧の中で書かれました。ユダヤを支配したアンティオコス4世は支配を徹底するために、ユダヤ人が大事にする安息日や割礼を禁じ、エルサレム神殿にギリシャの神ゼウス像を置いて礼拝を強制しました。
遠藤周作の「沈黙」という本はキリスト者の間では有名な書物です。日本にキリスト教布教のためにやってきたポルトガル人司祭が、踏絵をすることによって日本人のキリシタンたちを救うべきか、それとも踏絵を拒むことによってキリシタンが迫害に耐え苦しみ続けるのか、というジレンマに苦しんだ結果、キリスト教を捨てるという話です。神に祈ってもただ神は沈黙するのみである。信仰を保つことのむずかしさ、信仰とは何かをテーマにした深い物語です。「信仰を保つことのむずかしさ」と「信仰とは何か」はダニエル書で起こっている状況と同じではないでしょうか。あくまでも本日の聖句においては、信仰者としての理想像が書かれており、実際はこのようにハッピーな結果には終わらないのであります。それが現実世界のありのままの姿です。
しかし、信仰者のこうした苦しみや葛藤が、今日のわたしたちの信仰を支えてくれていることも事実です。ユダヤ人もイスラエル王国を建設し、長い歴史の中の苦難を乗り越えようとしました。信仰においてはつまづくことも多々あるでしょう。しかし、どのような状況であれ、神様が共にいてくださることだけは覚えていただきたいのです。わたしたちの方から離れることはあっても、神様から離れることは決してありません。今日の聖句のように、ひそかに神様はわたしたちを救ってくださるのです。
神さま、どうかわたしたちがどのような状況にあっても、わたしたちをお守りください。今生きていることも、また将来必ず訪れる死にあっても、あなたが共にいてくださることを信じたいと思います。これからもずっとあなたが共にいてくださいますように。
2014年10月26日礼拝内容
ルカ福音書というのは、とにかく貧しい者に対する配慮が込められており、また、貧しい者への希望を語っています。福音書全体を読んでいただくとその特徴がはっきりと現れます。マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネと見比べてみると、貧しい者に対する思いやりというのが感じられる言葉や文章が書かれています。今は経済的に貧しくとも、やがて神と共にあって豊かになるということを語っています。今日の聖書箇所も例外ではなく、4つある福音書の中でルカ福音書にのみ描かれているお話です。
私たち日本人は貧富の差こそ広がっていますが、食べることに困らない社会になりつつあると思います。現代の日本における貧しさは金銭よりもむしろ心の問題に焦点が当てられるようになりました。金銭的欲求よりも生き方に悩み苦しむ人が増えつつあります。
わたしたちキリスト者は、生き方をどこに求めるべきか、それは聖書であると思うのです。現代の貧しい人とは、生き方に迷い、戸惑っているすべての人たちを指します。心の時代なのです。伝道するという使命を抱くわたしたちにとって、貧しい人たちに何ができるか、それは聖書に基づく生き方を自然と示すことなのではないかと思います。わたしたちは神さまによって、イエス様によって生かされている。その生き方を、ありのままの生き方を示す。それこそがわたしたちに出来る最大の施しであると思います。